「美作の国吉井川」はとても参考になりました。
まず人の往来です。
岡山南部で育った私は、県北地域は「点」でしか理解できていない。
例えば、津山、奥津、湯原、勝山、落合、新見といった「点」です。
美作という国の単位で考えたことはありません。
交通手段もJRや国道経由でしか考えたことがありません。
しかし、鉄道や車がなかったころはどのようにして移動していたのでしょうか。
当然、街道や往来はあるので徒歩や籠という手段が中心でしょう。
そして、下流では船の往来があったことは知っていますが、中流はどうだったのだろうか。
この小説からわかりました。
もちろん、帆掛けて上るわけにはいきません。
岡山には3つの大きな河川があります。
岡山市には旭川が流れており岡山市の北部にも高瀬舟が上っていたことは知っています。
人が引っ張っていたわけです。ひっかりにする大岩も残っています。
こうして福渡まで船で上り、ここで1泊して城下町である津山まで歩くか、籠に乗って入ったといいます。
その籠は、明治になって人力車に変わりました。
ところが津山を流れている川は吉井川です。旭川は福渡から川筋を左にとって今の真庭市の方にいってしまいます。
では津山を流れる吉井川の下流はどこでしょうか。
林野や佐伯を通って和気、西大寺と南下します。この地域は戦国時代までは岡山より栄えていたようです。
西大寺は岡山東10kmほどに位置します。裸祭りで有名です。
ですから、この吉井川も重要な交通路だったわけです。
西大寺からは片上港をへて瀬戸内海航路と繋がっていたのです。
この航路は人以上に荷物の輸送が中心だったのです。
津山までは下り1日、上り3日かかったそうです。
明治初年まではこのゆったりしたペースで十分だったのですが、陸蒸気が登場してから瞬く間に移動のスピードが上がりました。
交通革命です。
新たに登場するものあれば廃れていくものがあります。
人間でいえば、士族の没落。城の廃棄です。津山は旧幕派ですから維新政府からはまことに冷たい扱いです。
交通では真っ先に籠から人力車に変わりました。
では高瀬舟(岡山発祥)はどうだったかと言えば、鉄道が津山まで伸びた明治30年代になって一気に滅んでしまいます。
小説「美作の国吉井川」はその明治初年から明治30年までを描いています。
主人公の村田りんは、女ばさらといわれただけに当時の女性からはかけ離れており
剣術の練習に明け暮れた少女時代を送っています。
男装していたそうです。
りんは幼年期に家族が離散してしまい、祖母と弟と3人で伯父の廻船問屋に引き取られます。
伯父は遠くに聞こえてきた文明開化の音に行く末を閉じられようとしているにもかかわらず暖簾を守ろうとしてしまいます。
りんは、廻船問屋を切り盛りするまでに成長しますが、機械文明に抗することができないことがわかっていても伯父の考えを変えることができません。
さらに不幸なことに、恋する男とは日本と清国の距離に阻まれ思いがかなえられません。
幼年期の西南戦争に始まり日清日露戦争へと戦争が大きくなり身近な男子を戦場に送ることが当たり前になっていった明治期です。
露骨な対外政策がまかり通っていました。
津山という山国にも余波が及んでいました。
県南とは異なる厳しい四季ですが、人々は生き抜いていきます。逞しくやさしく。
同じ県ですが風土がこれほど違うのかと思い知らされました。
新たな発見と思いがあった小説でした。
作者の棟田博は、長谷川伸の弟子です。池波正太郎とは兄弟弟子です。
読み手を引き込む筆力はさすがです。
手元に置きたい一冊ですがかないません。
お読みいただきありがとうございました。
ウクライナに平和を!