岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【大阪】大都市へ進出2  石井十次42

2005-04-05 23:08:39 | 石井十次
1909年(明治42年)7月31日、
世に言う「天満焼け」の大火が大阪市北部を襲った。
早朝、北区空心町のメリヤス製造工場から出た火は強風に煽られ、
西へ燃え広がり、堂島浜に沿った控訴院、地方裁判所、回生病院、
お初天神を焼失、北新地を焼き尽くし福島に延焼、出火から
丸一昼夜、田んぼを防火線にしてやっと鎮火したという。

JR大阪駅から南に向って歩くと国道2号線の交叉点がある。
渡ってさらに南に歩くと堂島川に達する。この大阪駅から堂島川
の間の街が焼失したのである。1km程度の距離であるが、
東から西への強風のために、西に延焼し福島に達した。

被害状況は、焼失戸数11,365戸、いわゆる「キタ」を
ほぼ壊滅状態にしてしまったのだ。

当日、北区出入橋(曽根崎新地)にあった大阪事務所には
十次夫妻がいた。猛火はこの事務所を襲い全焼してしまう。
夫婦は難を逃れて「ミナミ」に出来たばかりの「同情館」に入る。
そして、ここを仮事務所とする。

十次は試練にも、愚痴一つ言わず、火事の後始末を指示し、
大阪から宮崎へ向う。
岡山と大阪、そして宮崎と移動を繰り返す十次には、やらねば
ならない事業が多い上、身体の不調も抱えていた。

翌年、はやくも大阪事務所を再興する。
「ミナミ」の夜学校と保育所も順調に推移していく。
十次が思い描く規模にはならなかったのだが、彼の信念は今も
大阪の地に受け継がれている。
社会福祉法人「石井記念愛染園」である。
大正6年に、大原孫三郎によって設立され、現在は愛染橋病院を
はじめ保育所、特養、通所介護施設など多数の事業を展開している。
愛染橋病院は、十次が製材所跡に夜学校を始めたその場所にある。

20世紀初頭の大阪では、いくつかの社会事業が行われ始めている。

1918年 大阪府につくられた方面委員制度は、1917年の岡山県
済世顧問制度ともに、今の民生委員制度の源といわれる。
1921年 大阪市民館の設立した。 公的セツルメントの草分け。
○啓発図書
1916年 「貧乏物語」河上肇 大阪朝日新聞掲載が始まる。
○研究所 
1919年 大原社会問題研究所が天王寺に創立。

民生委員の前身が、岡山と大阪から始まったのはなぜか。
社会福祉への取り組みが2つの府県で進んでいたとすれば、
十次たちの影響があったのかも知れない。また大原社会問題
研究所は、十次のパートナーである孫三郎が設立したものだ。
人々の繋がりを細かく見ていくことで、その時代のネットワークが
見えてくるはずである。

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