岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【理想郷】宮崎へ  石井十次その43

2005-04-06 09:43:50 | 石井十次
ここまで、十次と宮崎の係わりは、少年時代を除いては、
ほとんど触れてこなかった。
故郷宮崎は、いつも十次の胸の中にあった。
ある時は強くまたある時期は弱くではあったが、片時も
忘れてはいなかっただろう。ここでは、十次の全人生を通じて、
故郷宮崎との係わりを書いていきたい。

十次は17才で岡山に旅立つまで、東京に学んだ10ヶ月以外
は宮崎で過ごしていた。この時期に、事業前史と言っていい
かもしれない活動を始めている。
十次は明らかに郷里の村の希望の星だった。

1883年(明治13年)、鹿児島の未決監獄に入れられて折、
知り合った鹿児島の私学校生から西郷隆盛の人物と思想を
聞き、感じ入る。生涯の師と定めた十次は無罪放免後、
すぐに行動に移る。

五指社を作り、唐瀬原(児湯郡川南町)で開墾を始める。
この時期、職を失った旧士族は全国各地で、未開の地で開墾
を始めている。
十次も西郷の思想を知り、さっそく実行するのである。
もちろん一人である。未熟だった彼は、「ほとんど志のみ」
といえる状態なので当然のように失敗する。

未開地開墾では、北海道への開墾事業が有名である。
1880年(明治13年)、兵庫三田で誕生した三田士族が中心の
組織「赤心社」は、北海道・浦河への移住を進めている。
赤心社は、艱難辛苦を重ね、現在まで引き継がれている。

奇遇なのか必然なのか、意見は分かれるかもしれないが、
この赤心社の起源に、アメリカンボードの宣教師が係わり、
この宣教師が岡山で十次を指導した。
十次も開墾に夢を持ち続けることになる。

プロテスタントは新天地を求めてアメリカ大陸に移住した経緯
があり、開墾開拓に対する志が強い。この志は西郷などの思想と
つながることで、三田の旧士族の中に定着していったのでは
ないか。

十次+(西郷+プロテスタント)→開墾→宮崎 という流れも
面白い。

十次は、1882年(明治15年)に岡山に行くが、その後も
たびたび宮崎に帰る。この年の帰郷などはカソリックの
伝道師を連れて帰っている。

1884年夏、帰郷した十次は「馬場原教育会」を設立する。
帰郷する船内で新島襄の「同志社大学設立趣意書」を読んだ
ことで考えが固まったといわれている。
「馬場原教育会」は、1.教育、2.修学援助、を柱とした。
1は、朝晩学校(昼は働き夜は学習)の設立と書籍の貸与。
2は、18才以上の苦学生への遊学援助である。
十次自身まだ20歳の医学生である。このような取り組みを
始めようとすることに驚くが、地域の人がその十次を支持する
ことにも瞠目する。
すでに地域では、指導者としての信望を集め始めていたの
だろう。

ただ、地域の人は支持はしても金銭的な援助は限られていた
ようだ。十次は、5人の学生を岡山に迎え入れるが、彼自身の
仕送りでは生活できない。
借金が死ぬほど嫌いな彼が借金をし、按摩の格好をして岡山の
街を歩くことになったのである。
資金集めに京都に行ったときも按摩をしていたという。
(山村軍平目撃)

最新の画像もっと見る