岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

「思いに任せぬ春に。」朝日新聞 2月23日。

2013-02-26 20:44:02 | 日本の仲間
この記事はとても興味深かった。
読み直したいと朝日新聞デジタルのスクラップブックに入れていました。
二人の女性がサラリーマンへの応援の文章を書かれていました。
キリスト教系大学の理事長である渡辺和子さん。
銀座のスナックを経営している まゆみ さん。
住む世界は違っていても、思うに任せぬ人々を思う気持ちは同じです。
一部ですが転載させていただきます。


■鏡に映った自分を受け入れて シスター・渡辺和子さん

 <誰のため働くか> 思い出すのは厳しかった母の言葉です。「くだらないことで腹を立てるあなたはその程度の器、小さな人間なのよ」。冷たいなぁ、一緒に怒ってくれたらいいのに、と幼い私は思いました。

 でも母の言うとおりでした。誰かに腹を立てることは、その人の支配を受けることなのです。あなたが環境を支配する主になることが大切なのです。私も修道院で尊敬できない人、私と異なる価値観を持つ人との共同生活も経験しました。でも意地悪に意地悪で対抗してはいけないのですね。相手のレベルに、自分を下げたくありません。

 神の話をすぐ持ち出すのは、あまり好きではないのですが、私が修道院でつらい思いをしていた時、ある米国人宣教師に教わった「ONE to one」という言葉があります。大文字のONEは神を、小文字は自分を指します。「神と私」ぐらいの意味でしょう。「あなたは神に仕えるために修道院に入ったのであって、あなたの心を煩わせる人のためではない」。宣教師は私に、そう教えたのです。何のためでもいい。あなたにとっての「ONE」を明らかにすることです。

 私は軍人の娘で、父は2・26事件で襲撃されました。1936年2月26日朝のことです。30人余の青年将校と兵士たちに襲われ、43発の銃弾を受けました。さっきまで私の隣で寝ていた父は、わずか5分で物言わぬむくろになったのです。座卓の陰に隠れた私は、わずか1メートルの距離で、その一部始終を見ました。9歳でした。

 <逆境で根を張る> 私は学生に「死にたいほど苦しい時、『苦しいから、もうちょっと生きてみよう』とつぶやいてください」と話します。生きる決意に勇気と力が宿るのです。サラリーマンの方にも、死にたいほど苦しい時があるでしょう。その時は、つぶやいてみてください。「苦しいから、もうちょっと生きてみよう」と。

 若いころはおしゃれだった私も年を取って、大きな病気をしたために背中が丸くなり、身長も低くなって、鏡に映る自分を見るのが嫌になりました。しかし鏡を割ったところで、自分の姿は変わりません。

 「どんな自分でも受け入れなさい。自分が見捨てたら、誰も拾ってくれないのですよ。ふがいない自分としっかり向き合って生きていくのです」――。

 逆風の中で花を咲かせるには、自分自身との厳しい闘いが必要です。どうしても咲けない日には、根を下へ下へとおろし、張るのです。次に咲く花はうれしいこと、楽しいことだけを肥やしにした花とは違う、美しい花となることでしょう。

◇ わたなべかずこ 27年生まれ。父親は渡辺錠太郎・陸軍教育総監。岡山市のノートルダム清心学園理事長。著書「置かれた場所で咲きなさい」は100万部突破。

 

 ■泣いた分だけ笑える時が来る スナックママ・真由美さん

 うちの店には、新宿の会社にお勤めのサラリーマンが多いわね。いますよ、私が何を話しかけても無言で無視するお客さん。きっと会社で嫌なことがあったんでしょうね。いつも私は言うわ。聞かせて。私でよければって。

 でも、だいたいこう言われる。「サラリーマンの苦労は、そうでない人には分からないよ」。私は答えるわ。「だよね。ごめんね。でも少しでも分かりたい気持ちがあるの。だから話して」って。

 それでも黙っているお客さんには、私の話を聞かせるの。私、8年前まで新宿のソープランドで働いてました。同じお店に21歳から42歳まで。乱暴な男、えたいの知れない男。8割方は嫌な客だったけど、給料の中から安くないお金を払って来てくれたんだから一生懸命、働きました。でもどうしても笑顔になれない時。その時は何も考えない。心を空洞にするの。これでお金をもらえるんだって。

 ある時、お金をばらまいて、「ほら、拾えよ」っていう客がいたの。拾ったわ。「あらあら、お客さん」なんて笑いながらね。そしたらね「お前、プライドないのか」って。ないわ。そんなの。とっくにないわよ。私はこの仕事でお金をもらって生きているのよ。仕事が終わって帰り道、日払いの給料が入った財布を見て「あぁ今日も我慢してよかった」って考えるようにした。そんな毎日だったから、ちょっとでも優しくされると、本当にうれしかった。

 私は娘のために働いた。2歳で生き別れた娘のために。私、高校を出てすぐ8歳上の男と結婚したの。両親の猛反対を押し切って。でも暴力がひどくて離婚して。娘は経済力のある元夫が半ば強引に連れてった。それでもいつかは娘が帰ってくると信じていた。その時、お店の一軒も持って恥ずかしくない生活をさせてやりたい。その思いだけが支えでした。

 <ここが捨て場所> えぇ何度、辞めようかと思ったか。でもね、むかし誰かが言ってたわ。「人生で泣く時間と笑う時間は同じぐらいだよ」って。私の人生にもいつか笑う日が来る。そう考えて耐えた16年目。実家に頻繁に無言電話がかかってきたんです。ピンときました。娘だ、と。父親に虐待されて祖父母に育てられていたそうです。戻ってきたときは、18歳になっていました。成人式の支度もしてやれた。ようやく私が笑う番が来たんです。

 そんなある日。私の記事が載った男性週刊誌を見ていたら、娘が出ていました。売れっ子アダルト女優として。知らなかった。ショックだった。DVDショップに行くと、お店の人が「この子、売れてるんですよ」って言うじゃない。もうね、全国を回って娘が出てるDVDをすべて買い占めたい、誰の目にも触れさせたくないと思ったわ。

 娘には、私の仕事のことは隠していたんです。でも正直に話して「私は長いことやってるけど、裸の仕事はやらなくてすむならやらない方がいい」って諭したわ。娘は真剣に聞いてくれました。こういう仕事の悲しみを知る母親の言葉だから、聞いてくれたんだと思います。今、アダルトの仕事はやめて、Vシネマに少しだけ出るようになりました。娘も笑う時がくるのでしょう。だからあなたにもそういう日が来るわ。きっと。

 「ママ。ごめんよ。俺、感じ悪かったよね。どうかしてたよ」ってお客さんに言ってもらえると、私もうれしい。感じ悪いお客さんには「そういう態度を出してくれてありがとう」って言うの。風俗や水商売って男の人がいろんなものを捨てにくるところ。がんばってる人ほど来る場所だわ。ただね会社や家庭で態度に出しちゃだめよ。何事もなかったように、お帰りなさい。

 (聞き手はいずれも秋山惣一郎)

まゆみ 62年生まれ。新宿・歌舞伎町でスナック港崎を経営。元日の、東京MXテレビの「おママ対抗歌合戦 第4回グランドチャンピオン大会」で優勝した。


なにか新約聖書を読むような思いがしました。
優しい眼差しが紙面に広がる。
私たちが学べるかどうかは、学ぶ人の心の中にあるものによるようです。
心を映すのが瞳なら、澄んだ瞳を持ちたいものですね。

朝日新聞さん、長い転載ごめんなさい。
悪気はありません。記事が素晴らしかったからです。
あなたの責任です。とは言いませんが。


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