岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

「みんなみかた会議」に出席して来ました。

2013-01-19 20:35:54 | 東日本大震災
岡山市北区南方にある長泉寺で開かれました。
地名が南方ですから、「みなみかた」変じて、みんなみかた。
なんと素敵なネーミングでしょう!

これだけで温かい気持ちになりました。

東北と関東の方お二人のお話をお聞きしました。

埼玉県川口市から母子で避難された方の心理的葛藤は想像を絶するものでした。

自主避難者に対する批判の声が聞こえてきた。
家族や親族を残してきたことに裏切りのような後ろめたさがあった。
夫とは夜を徹して話をした。
夫は仕事のため避難できない。
避難するなら母子となる。


3月16日、母として感じたことを実行すると決めた。
決断した数時間後には東京駅から夫の実家のある福岡へ向かった。

4月上旬、再び川口に戻った。
川口は大好きな街、離れたくなかった。
当時、川口では原発を話し合うのはタブーだった。
考えすぎと思われるのは嫌だった。
一日中、家の方に籠っていた。

ネットで避難先を検索した。今度は福岡には行けないと考えた。
「岡山」が選択肢に上がった。
でも岡山は全く知らない。日本海側にあるのかと思った。
(人のことは言えない。岡山県人で栃木と群馬の位置が言える人はそういない)

避難のリスクも大きかった。
金銭面でも厳しい。
大好きな川口に一生住もうと、3年前にローンで住宅を買った。
避難先では被災証明がないから支援を受けられない。

考えれば考えるほどどうすればいいか、わからなくなった。

最後に決断した。
子どもが生まれたときに、宮参りした時に願ったことを実行しようと。
(なにを願ったのかは話されなかったが、彼女のその後の行動を見れば容易に想像できる)。

まず、倉敷そして岡山市へと移り住んだ。
とても心細かった。
子ども(当時は2才?)も不安が強く、人と面と向かえなくなっていた。
彼女にとっては、いつもいつも知らない人ばかりだった。

それでも父親を恋しいとはいわなかった。
母親を悲しませたいないからと我慢していた。

岡山に来てから1年半。
子どもも保育園に通い出してから楽しそうな顔を見ることができるようになった。
いつか大好きな川口に戻りたい。

岡山で活動する「子ども未来・愛ネットワークとのつながり」が一番助かっている。

本日の新たな出会いに感謝しています。

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