タイトルには、私の頭が?でしたが、映画を観て納得しました。
これが戦争なんだ。この地獄を作るのが軍隊なんだと心に刻まれました。
二人の女性が監督です。
ホームページはこちら。
両監督のプロフィールも記載されています。
では、どのような映画なのか。
沖縄戦で明らかになっていない戦史、それも悲惨な戦史を取材されています。
日本のスパイといえば陸軍中野学校です。
その中野学校の卒業生が沖縄戦にかかわっていきます。
WIKIにも書かれていますが、それは上っ面だけです。
取材した生存者の口からは、今まで語ることが憚れた悲惨な地獄が表れてきます。
沖縄の戦いは、中央部に上陸した米軍が南下し那覇を破り南端の岬に追い詰めた果てに日本軍の組織的な抵抗は終わります。
この映画は、沖縄本島中央部で二つに分断された日本軍と民間人の北部での抵抗を取材します。
中野学校出身将校は、沖縄戦が始まる半年前に着任し、遊撃隊すなわちゲリラ隊の準備をします。
これは本土での戦いがゲリラ戦になるであろうと想定した準備でもあります。
しかし、もう正規の兵士を召集することができない日本軍は、十代半ばの少年を集めて、護郷隊を結成します。
投降することが許されない少年兵は悲惨は目にあっていきます。
怪我や病気で一緒に退却できない少年たちは、投降し情報を漏らす可能性があるとして上官に射殺されます。
ゲリラ戦は、敵味方が判別できない状態になり仲間同士が疑心暗鬼に陥ります。
民間人も疑われ射殺されます。
日本軍は民間人を守るのが任務ではない。
国を守るためにあるのだといいます。
この考えは基本的には今の自衛隊にも受け継がれているといいます。
この映画は、戦争体験者取材を中心に、わかりやすい地形のイラストなどを使い、知識のない観客にもわかりやすい構成になっています。
現代の戦争のニュースなどを観ても、戦争はほとんどゲリラ戦です。
だれが敵でだれが味方かわからない。
疑心暗鬼の世界です。
それは、人間性の破壊そのものです。
そしてそれを推し進めるのが軍隊です。
もうだまされないようにしなくてはなりません。
観客も多く、少し安堵しました。
(最後にwikiから該当部分を引用します)
1944年9月三乙教育出身者の村上治夫と岩波寿らが、沖縄へと着任した。小禄空港(現那覇飛行場)に着くと、第三二軍司令部で牛島満中将と長勇参謀長に挨拶を行った。村上によると、「着任のあいさつを終えた後、長勇参謀長から『沖縄が玉砕した後も生き残り、遊撃戦を続けろ』と言われた」と述べている。村上は、その後遊撃隊として、沖縄北部に配置され、那覇に進行するであろう米軍の背後を襲うことを命じられる。また、同年9月、遊撃戦の下地作りとして、護郷隊を組織し、少年兵を召集した。大きな原因は、兵士不足によるものであるが、15~16歳の少年たちが北部での遊撃戦を担っていく。 1945年3月26日、米軍が上陸作戦を開始すると、護郷隊は、多野岳・名護岳に配置された。4月には、交戦が始まり、米軍の真喜屋・稲嶺キャンプを焼き払う攻撃を開始、不意をつかれた米軍は奥武島へと撤退した。このあと、米軍は多野岳への砲撃を開始し、村上らは山深い国頭山中へと撤退している。5月下旬に第三二軍が首里の司令部を放棄し、南部へとむかう。そして、牛島と長が6月23日に自決し、日本軍による組織的な戦闘は終結。護郷隊は、潜伏することになるが、これは事実上の解散であった(ここまでの記述は、川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦』2018による)。 (波照間島)では、1945年2月、山下虎雄中尉こと酒井喜代輔軍曹(中野6期戊種)は小学校の代用教員として潜伏。全校生徒250名の4年生の担任となり、青年学校の柔剣道教師を兼任した。その後、石垣島司令部より波照間島に米軍の上陸が予想されたため、「全島民を西表島に疎開させ、その後建造物一切を焼却し、井戸を埋没して使用不能にせよ」との命令が出されたが、山下は西表島への疎開は困難であることなどを何度も司令部に訴えたが、司令部に聞き入れてもらえなかったため、疎開を受け入れない一部の住民には軍刀で脅すなどして、全島民を西表島へ強制疎開させた。その際、西表島に連れていけなかった住民の所有する2,000頭あまりの牛馬、羊や豚や鶏などを住民とともに殺処分し、処分された家畜は日本軍の食料とした。住民はマラリアの流行る南部地域に移住したため、由布島に移住したもの以外はマラリアにかかることとなり多数が亡くなった。
引用終わり