岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【理想国】必要なのは憲法と...   石井十次その47

2005-04-10 23:07:43 | 石井十次
宮崎・茶臼原建設は十次が構想する理想国の、実現への第一歩
であった。
十次は今までいろいろな規則をつくってきた。自分たちの信じる
ことを実現するためには、どうしても規則が必要と考えていたの
だろう。十次自身は、自らを律する規則が重要と考え、日誌の
中にも数多く規則をつくり、実行している様が書かれている。

ところで、職員や児童はその規則についてどのように思っていた
のだろうか。興味があるところである。

1913年(大正2年)、憲法を確定する。

茶臼原憲法三章

一、天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ相愛すべきこと
二、天父は恒に働き給ふ、我等も倶に労働すべき
三、天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を實行し、
  収入の十分の一を天倉に納むること

この憲法は紀元節の日に発表された。今なら違和感がある日程で
ある。基本は、キリスト教の思想であることはわかる。
しかし、神を天と置き換えており、より抽象的になっている。
一、天の前には、皆同胞であり平等である。お互い信じ愛し合う
べし、という。
二、天の父は、いつも働いている。ともに働こう。
これは、この茶臼原が一時の養育や訓練の場所ではなく、生涯に
渡って働き自活する場であることを書いている。
ここにおいて岡山孤児院とは決定的に異なることが理解できる。

三、天の恵みに感謝し、そのしるしとして、禁酒禁煙をする。
同時に十分の一を天倉に納めること。この三は、明らかに大人を
対象にしている。

ならばと一と二をもう一度読み返せば、こちらも大人を主に
児童を従に書かれていることがわかる。
ここで、茶臼原憲法は、大人を中心にした初めての規則の誕生と
いうことが明確になる。

では天倉とは何か。聖書のマラキ書から着想したといわれている。
では、その書から引用してみよう(この書は主の民に対する叱責
の書のようだ)。
「十分の一の献げ物をすべて倉に運びわたしの家に食物がある
ようにせよ」そうすれば「必ず、わたしはあなたのために天の窓
を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」
もちろん、ここで捧げるのは主に対してであるが茶臼原の場合は、
施設の運営資金になるわけである。実際は十分の一を天倉に
納めても、とても運営資金はたりなかった。

岡山から宮崎に移住したことで十次の思想になにか影響が
あったのだろうか。私は大いにあったと思う。

まず、岡山はやはり先進の地であり、外国からの情報が多い。
身近に外人宣教師もいる。京阪神に近いこともあり、日本の
知識人との交流も日々行われていた。

一方、宮崎では、開墾に向き合う日々である。海外の社会事業家
に学んだ知識も、理念としては生き続けるが、大地開墾という
事業の前には、日本に根付いた思想が実用的なのである。
(そして宮崎で海外事情を語り合う仲間がいたとも思えない)

十次は、その思想を二宮尊徳から学ぶことになる。
尊徳の行状を書いた「報徳記」が世に知られるようになるには、
なかなか一筋縄ではいかない経緯がある。
年表風に書くと
1880年(明治13年) 旧相馬藩主充胤が「報徳記」をを明治天皇に
献上。
1883年(明治16年)「報徳記」が宮内省から刊行され、全国の知事
以上に御下賜する。
1885年(明治18年) 「報徳記」を農商務省からも刊行、全国の官吏
に読ませる。

このような経緯では、学校に金次郎像ができるのが当然といえる。
大原孫三郎が、「聖書」と「報徳記」を座右の書にしていたと
聞くが、「農村の復興」が書かれてる本なのだから、十次にこそ
ぴったりだった。もちろん、御下賜本ということだから、有り難さ
も並外れていたかもしれない。

この「報徳記」の熟読から生まれたのが、「鍬鎌主義」だった
(3月20日号掲載)。
日本の農地開拓には、やはり日本の思想が必要だったのだろう。

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