藤田は1913年にパリに渡ってから18年の間。フランスに定住していた。
この間、29年に日本に数ヶ月帰国。アメリカ経由でパリに戻っている。
アメリカには再び30年に展覧会を開くために訪れている。
このように小さな旅を重ねてやがて「旅を棲家とする」生活が始まる。
人生の半分を異郷で過ごした藤田の日本観は、1931年からの旅で一層を
独特のものになっていく。
とともに、日本的な感性ともいわれた画風が大きく変わっていく。
1931年(昭和6年)45歳になった藤田はシェルブールからブラジルに向けて
旅立つ。すでに著名な画家と国際的に評価されている彼は、各地の芸術家
協会に招聘され、現地で作品を描き、個展を開く生活を続ける。
また日本人会から講演を頼まれることもあった。
このようなスタイルは、かって日本の俳人が旅をしながら旅先の名士に呼ばれ
寝食の世話になったことに近いと思われる。
時代は20年代の文化的輝きが過去となり、欧米は大恐慌の後始末に追われていた。
藤田の中南米旅行はそのような経済的理由も考えられる。
1932年 ブラジルとアルゼンチンを中心に活動していた藤田は、ウルグアイ
から南米大陸を北上し,ペルー、エクアドル、パナマを経てカリブ海そして、
メキシコに入る。
メキシコには7ヶ月間の滞在となる。旅の中での定住である。
ここで藤田は「大壁画」と風景に心を動かされる。
この後、カルフォル二アに4ヶ月滞在し日本に戻ることになる。
この大旅行が藤田にあたえた影響は計り知れない。それはその後の彼の
作品をみれば一目瞭然である。
さて、この藤田の「旅を棲家とする」旅行を支えたものに日本人の中南米での
活動とともに交通網があったことも知ってほしい。
1970年代にはなくなってしまったが、世界を巡る日本の商船網である。
藤田がブラジルとアルゼンチンを往復するのに利用したのは大阪商船の
ブエノスアイレス号。
米国から横浜は秩父丸。その他、香取丸、大洋丸にも乗船している。
かって異国を旅する日本人にとって母国の船にのることができる喜びが
いかばかりだったか想像することも難しいが、第2次大戦開戦直前には
ニューヨークから南米を経由して日本に帰る商船を駐在者や旅人が乗り遅れ
まいと必死になっていた。
異国を追われた人々のことも忘れてはならない。
この間、29年に日本に数ヶ月帰国。アメリカ経由でパリに戻っている。
アメリカには再び30年に展覧会を開くために訪れている。
このように小さな旅を重ねてやがて「旅を棲家とする」生活が始まる。
人生の半分を異郷で過ごした藤田の日本観は、1931年からの旅で一層を
独特のものになっていく。
とともに、日本的な感性ともいわれた画風が大きく変わっていく。
1931年(昭和6年)45歳になった藤田はシェルブールからブラジルに向けて
旅立つ。すでに著名な画家と国際的に評価されている彼は、各地の芸術家
協会に招聘され、現地で作品を描き、個展を開く生活を続ける。
また日本人会から講演を頼まれることもあった。
このようなスタイルは、かって日本の俳人が旅をしながら旅先の名士に呼ばれ
寝食の世話になったことに近いと思われる。
時代は20年代の文化的輝きが過去となり、欧米は大恐慌の後始末に追われていた。
藤田の中南米旅行はそのような経済的理由も考えられる。
1932年 ブラジルとアルゼンチンを中心に活動していた藤田は、ウルグアイ
から南米大陸を北上し,ペルー、エクアドル、パナマを経てカリブ海そして、
メキシコに入る。
メキシコには7ヶ月間の滞在となる。旅の中での定住である。
ここで藤田は「大壁画」と風景に心を動かされる。
この後、カルフォル二アに4ヶ月滞在し日本に戻ることになる。
この大旅行が藤田にあたえた影響は計り知れない。それはその後の彼の
作品をみれば一目瞭然である。
さて、この藤田の「旅を棲家とする」旅行を支えたものに日本人の中南米での
活動とともに交通網があったことも知ってほしい。
1970年代にはなくなってしまったが、世界を巡る日本の商船網である。
藤田がブラジルとアルゼンチンを往復するのに利用したのは大阪商船の
ブエノスアイレス号。
米国から横浜は秩父丸。その他、香取丸、大洋丸にも乗船している。
かって異国を旅する日本人にとって母国の船にのることができる喜びが
いかばかりだったか想像することも難しいが、第2次大戦開戦直前には
ニューヨークから南米を経由して日本に帰る商船を駐在者や旅人が乗り遅れ
まいと必死になっていた。
異国を追われた人々のことも忘れてはならない。