♪汽笛一声新橋を~♪で始まる鉄道唱歌。本当は路線ごとにたくさんの歌集があるのだそうですが、一番有名なのは東海道を歌ったもの。
その一番は、「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」となっています。
問題はこの愛宕山。東京は港区にある小山ですが、愛宕山と名が付いている山はたいていが愛宕神社と関わりが深くなっていて、まさにの愛宕山にも愛宕神社が祀られています。
今日は夜にこの愛宕地区のビルで勉強会があったので参加したのですが、近くに愛宕神社があることに気づいてお参りをしてきたのです。
この愛宕山標高は25.7mあるのですが、天然の山としては都内23区で最高峰なのだそうで、これはちょっとした豆知識。
参道正面の石段は急勾配で、昇るのに骨が折れるのですが、これが講談では有名(らしい)出世坂ということになっているのだとか。
インターネット百科事典のWikipediaによると、
「…現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。これは、江戸時代・増上寺参拝の折に徳川家光が山上にある梅が咲いているのをみて、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている。」と書かれています。
徳川家光の頃といえばもう戦からはだいぶ遠ざかった平和の時代。それにもかかわらず、いざというときに備えて馬の訓練を怠らなかったその姿勢を家光が賞賛した、という美談になっています。
平時の備えを怠らず、曲垣平九郎にあやかりたいものです。
※ ※ ※ ※
さてこの愛宕神社。御祭神は火産霊命(ほむすびのみこと) とされていて、火の神様。古事記ではヒノカグツチノミコトと呼ばれる神様と同じです。
江戸は木造長屋でできあがっていたのでしょっちゅう火事が多く、そのことから火伏せのために徳川家康が祀ったのだそうです。
急な石段を登ってみると、6月30日の大祓えのための茅の輪が飾り付けられておりました。
ちなみに、幕末に江戸無血開城を目指しながら膠着状態に陥った西郷隆盛と勝海舟が二人で江戸を見下ろしたのもこの愛宕山からの景色。その後どちらからともなく、「この江戸を戦争で灰燼に帰すのは惜しい」と言い出して、無血開城に向けて大きな弾みがついた、とも言われています。
今では回りをビルや樹木に囲まれてしまい、往時の景色は望めませんが、歴史と由緒のある場所は良いものですね。
地方都市にはなにもない、と良く言われますが、本当にちょっとした歴史的な曰く因縁もないものでしょうか。ほんのささいなことでも、歴史を彩る話題として発掘すれば、自分たちはもちろん、観光客だって心が満たされるのですが。
愛宕神社のことを書くだけで、分量が来てしまいました。その後参加した勉強会の様子はまたいつか。
その一番は、「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」となっています。
問題はこの愛宕山。東京は港区にある小山ですが、愛宕山と名が付いている山はたいていが愛宕神社と関わりが深くなっていて、まさにの愛宕山にも愛宕神社が祀られています。
今日は夜にこの愛宕地区のビルで勉強会があったので参加したのですが、近くに愛宕神社があることに気づいてお参りをしてきたのです。
この愛宕山標高は25.7mあるのですが、天然の山としては都内23区で最高峰なのだそうで、これはちょっとした豆知識。
参道正面の石段は急勾配で、昇るのに骨が折れるのですが、これが講談では有名(らしい)出世坂ということになっているのだとか。
インターネット百科事典のWikipediaによると、
「…現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。これは、江戸時代・増上寺参拝の折に徳川家光が山上にある梅が咲いているのをみて、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている。」と書かれています。
徳川家光の頃といえばもう戦からはだいぶ遠ざかった平和の時代。それにもかかわらず、いざというときに備えて馬の訓練を怠らなかったその姿勢を家光が賞賛した、という美談になっています。
平時の備えを怠らず、曲垣平九郎にあやかりたいものです。
※ ※ ※ ※
さてこの愛宕神社。御祭神は火産霊命(ほむすびのみこと) とされていて、火の神様。古事記ではヒノカグツチノミコトと呼ばれる神様と同じです。
江戸は木造長屋でできあがっていたのでしょっちゅう火事が多く、そのことから火伏せのために徳川家康が祀ったのだそうです。
急な石段を登ってみると、6月30日の大祓えのための茅の輪が飾り付けられておりました。
ちなみに、幕末に江戸無血開城を目指しながら膠着状態に陥った西郷隆盛と勝海舟が二人で江戸を見下ろしたのもこの愛宕山からの景色。その後どちらからともなく、「この江戸を戦争で灰燼に帰すのは惜しい」と言い出して、無血開城に向けて大きな弾みがついた、とも言われています。
今では回りをビルや樹木に囲まれてしまい、往時の景色は望めませんが、歴史と由緒のある場所は良いものですね。
地方都市にはなにもない、と良く言われますが、本当にちょっとした歴史的な曰く因縁もないものでしょうか。ほんのささいなことでも、歴史を彩る話題として発掘すれば、自分たちはもちろん、観光客だって心が満たされるのですが。
愛宕神社のことを書くだけで、分量が来てしまいました。その後参加した勉強会の様子はまたいつか。