先週青山で致知出版社を見つけて、そこで吉田松陰の「一日一言」を買い求めました。
本に出会って読み進んでいる内に、(そう言えば、世田谷線沿線に松陰神社前という駅名があったはず)と思い出して調べてみると、やはりここが山口の萩とともにある吉田松陰の墓所であり縁の神社であることが分かりました。それならやはりお参りせずにはいられません。
今日は世田谷区内を走り回りました。
※ ※ ※ ※
さて、吉田松陰は天保元(1830)年8月4日(新暦では9月20日)に今の長門国萩松本村(現在は山口県萩市)に萩藩士杉百合之助の次男として生まれました。
天保5年に叔父の吉田大助の養子となり、翌天保6年には大助の死とともに、吉田家を嗣ぐこととなりました。
天保13(1842)年に、叔父の玉木文之進が私塾を開き「松下村塾」と名付けました。松下村塾とは、松本(下)村の塾という意味だったのだそうでよ。
その後、江戸で佐久間象山からも教えを受けて、「国を動かすのは吉田」と、大いに期待されました。
やがて黒船が来港した翌年の安政元(1854)年には門弟と二人で黒船に密航をしようとして失敗、幕府に自首をして長州藩の野山獄に囚われの身となりました。
そして安政2(1855)年からは叔父の開いた私塾松下村塾で主宰者となり、後の木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、明治維新の重鎮となった人材の教育に当たったのでした。
安政5年に幕府が日米修好通商条約を結ぶとこれを激しく避難して、時の老中の暗殺を企て、再び投獄をされることになります。そして翌年の安政6(1859)年に、江戸伝馬町の刑場の露と消えたのでした。享年29歳。
刑死後は小塚原回向院(現在の荒川区)の墓所に葬られていましたが、文久三年に高杉晋作や伊藤博文などの志士たちによって、ここ世田谷区若林の地に改装をされたのでした。
明治15年になって、かつての門下生らの働きによって、ここを社とし、東京府の府社として認められることになったのだそうです。
墓所には運命を共にした志士たちの墓も並んでいました。
※ ※ ※ ※
吉田松陰が後の明治の元勲らに薫陶をさずけたのは年月にすればわずかに二年半にしか過ぎないのですが、意志を植え付けるには充分な時間だったということなのでしょう。人間、心に火がつくのは一瞬の出来事なのです。
「吉田松陰一日一言」(致知出版社 川口雅昭編)より『雪中の松柏いよいよ青々(せいせい)たり』の一節。
「天が人に才能を与えることは多いが、その才能を自分のものとして、完成させることは難しい。才能を与えるとは、例えば春や夏に草木の花や葉が青々と盛んに茂るようなもので、これが才能を生じるというものである。しかし桃やスモモなどは秋や冬の霜や雪に遭えばみな枯れ落ちてしまう。ただ松や柏だけはそうではなく、雪の中でもますます青々とその緑を保っている。これが才能を完成させるということである」
次に『心はもと活きたり』から
「心というものはもともと生き物である。活きているものには、必ず発動のはずみというものがある。機というものは、何かに触れることによって発動し、感動することによって動くものである」
『盛強を勉めずして』からも。
「吾れ盛強を勉めずして人の衰弱を願う。是れ今人の見なり。悲しいかな、悲しいかな」
(自分の意気を盛んとし、精神を強化せずして、他人の衰え、弱化を願う。これは今の人々の考え方である。悲しいことだ、悲しいことだ)
※ ※ ※ ※
この「吉田松陰一日一言」は、吉田松陰自身の著作や他人に宛てた書簡などから拾ってきた文章を一日一言ずつ紹介する本です。全編に維新の気概に満ちた精神が展開しています。
境内には松下村塾を復元した建物もありました。学問をするのに施設が立派であるかどうかは何の関係もないのですね。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
これが彼の辞世の句です。人としてあるべき生き方を自らの姿勢で示した吉田松陰の生き方は、縁ある多くの人の心に今でも火をつけているようです。
本に出会って読み進んでいる内に、(そう言えば、世田谷線沿線に松陰神社前という駅名があったはず)と思い出して調べてみると、やはりここが山口の萩とともにある吉田松陰の墓所であり縁の神社であることが分かりました。それならやはりお参りせずにはいられません。
今日は世田谷区内を走り回りました。
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さて、吉田松陰は天保元(1830)年8月4日(新暦では9月20日)に今の長門国萩松本村(現在は山口県萩市)に萩藩士杉百合之助の次男として生まれました。
天保5年に叔父の吉田大助の養子となり、翌天保6年には大助の死とともに、吉田家を嗣ぐこととなりました。
天保13(1842)年に、叔父の玉木文之進が私塾を開き「松下村塾」と名付けました。松下村塾とは、松本(下)村の塾という意味だったのだそうでよ。
その後、江戸で佐久間象山からも教えを受けて、「国を動かすのは吉田」と、大いに期待されました。
やがて黒船が来港した翌年の安政元(1854)年には門弟と二人で黒船に密航をしようとして失敗、幕府に自首をして長州藩の野山獄に囚われの身となりました。
そして安政2(1855)年からは叔父の開いた私塾松下村塾で主宰者となり、後の木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、明治維新の重鎮となった人材の教育に当たったのでした。
安政5年に幕府が日米修好通商条約を結ぶとこれを激しく避難して、時の老中の暗殺を企て、再び投獄をされることになります。そして翌年の安政6(1859)年に、江戸伝馬町の刑場の露と消えたのでした。享年29歳。
刑死後は小塚原回向院(現在の荒川区)の墓所に葬られていましたが、文久三年に高杉晋作や伊藤博文などの志士たちによって、ここ世田谷区若林の地に改装をされたのでした。
明治15年になって、かつての門下生らの働きによって、ここを社とし、東京府の府社として認められることになったのだそうです。
墓所には運命を共にした志士たちの墓も並んでいました。
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吉田松陰が後の明治の元勲らに薫陶をさずけたのは年月にすればわずかに二年半にしか過ぎないのですが、意志を植え付けるには充分な時間だったということなのでしょう。人間、心に火がつくのは一瞬の出来事なのです。
「吉田松陰一日一言」(致知出版社 川口雅昭編)より『雪中の松柏いよいよ青々(せいせい)たり』の一節。
「天が人に才能を与えることは多いが、その才能を自分のものとして、完成させることは難しい。才能を与えるとは、例えば春や夏に草木の花や葉が青々と盛んに茂るようなもので、これが才能を生じるというものである。しかし桃やスモモなどは秋や冬の霜や雪に遭えばみな枯れ落ちてしまう。ただ松や柏だけはそうではなく、雪の中でもますます青々とその緑を保っている。これが才能を完成させるということである」
次に『心はもと活きたり』から
「心というものはもともと生き物である。活きているものには、必ず発動のはずみというものがある。機というものは、何かに触れることによって発動し、感動することによって動くものである」
『盛強を勉めずして』からも。
「吾れ盛強を勉めずして人の衰弱を願う。是れ今人の見なり。悲しいかな、悲しいかな」
(自分の意気を盛んとし、精神を強化せずして、他人の衰え、弱化を願う。これは今の人々の考え方である。悲しいことだ、悲しいことだ)
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この「吉田松陰一日一言」は、吉田松陰自身の著作や他人に宛てた書簡などから拾ってきた文章を一日一言ずつ紹介する本です。全編に維新の気概に満ちた精神が展開しています。
境内には松下村塾を復元した建物もありました。学問をするのに施設が立派であるかどうかは何の関係もないのですね。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
これが彼の辞世の句です。人としてあるべき生き方を自らの姿勢で示した吉田松陰の生き方は、縁ある多くの人の心に今でも火をつけているようです。