手相、人相、家相…、とその様子の良し悪しを表すのに「相」という文字を用いますが、渓流にも「渓相」という単語があります。
このような「相」を吉相と凶相を見極められるようになるためには、膨大な手や顔や家を見る必要がありますが、渓相もまさに同じ。
多くの釣り機会をこなした人にこそ、魚の住みやすい良い渓相と、魚の住めないような悪い渓相が分かってくることでしょう。
今日もちょっと足を延ばして札幌郊外の川へ竿を投げ入れてきましたが、事前の調べでは「良い渓相の川」ということ。
川の表情として、「瀬」と「淵」とよく言いますが、瀬とは「流れが速く水深が浅い場所のこと」で、その反対に淵とは「流水が緩やかで深みのある場所」のことで「淀み」ともいえるとのこと。
川歩きをしていて、これらが一定のリズムで出てくると、瀬から落ちた水流の速い流れが淵になろうとするあたりでよく魚が出てきます。
これは、よく餌が流れてきたり酸素の豊富な水だから、などと教えられたことがありますが、魚じゃないのでそのあたりは良くわかりません。
しかし大きさの異なる自然石がごろごろしているような自然河川ならば、いつの間にかミニダムのようになったところから急に流れが始まって、それがまた淵になる、ということを繰り返していて、そこにせせらぎの音が加わると、魚だけではなく人間にとっても非常に心地よさを感じることができます。
今日の川は、大きな石がごろごろしていて瀬と淵が程良く繰り返される自然らしい河川で、また、ある程度幅がありながらそれほど木々が頭上を覆っていなくて、竿が振りやすい空間でした
これだと魚も棲みやすいだろうなと感じましたが、生き物が棲息しやすい環境を心地よく思うのは、人類400万年の進化の中で見に着いた感性なのかもしれません。
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ところが、それだけ良い条件だと入る釣り人も多く、ポイントでもなかなか魚が出て来ず、魚影が薄い感じの釣りになりました。
結局今日は12センチのヤマベが一匹遊んでくれただけで、あとはアタリはあるもののフッキングしてくれなくて、なんだかポイントを壊しながら歩いているようで情けない。
さて、こういう自然河川は常に増水で川の様子は変化します。
護岸をブロックで固めてしまうと、増水には強くなりますが渓相は貧弱になってしまいますし、岸辺に木が無くなるので魚は棲みにくくなります。
以前長野県の野尻湖で潜水調査に参加したことがありますが、岸辺がコンクリートのところには全く魚がいなくて、岸辺が樹木なったところにはワカサギの稚魚がたくさんいたのを見ました。
岸辺の環境でこれだけ魚の生息環境が違うものかと驚いたものです。
護岸を守りながら渓相をよくする護岸ブロックなんてできないものでしょうか。
たくさんの川を見ることで渓相を見る目を養いたいものです。