東京に勤めていた高校の同期が昨年の秋に札幌勤務になりました。
そういう連絡をメールで受けてはいたものの、こちらはこの三月まで稚内勤務だったため何もできずにおりました。
四月から札幌に戻っているということで、「久しぶりに会おうよ」ということになり、同期四人が集まって旧交を温めあいました。
考えるともう四十年も前のことなので、全てを覚えているわけではなく、それぞれに記憶の断片が違います。それでもその記憶を紡いでいるうちに「あ、そうだったー、思い出してきた」と一人一人の思い出がよみがえってきます。
「そういえば、クラスで先生に似せた人形を作って怒られなかったか?」
「A木先生だろ?俺が書いた似顔絵があまりに似ているというので、それで高さ五メートルくらいの人形を作って学園祭で飾ったんだよな」
「そうだそうだ。あれ学校で問題になって学級委員長が怒られたんじゃなかったっけ?」
「そう。職員室で問題になって、二日目には掲示不可になり、おまけに学級委員長が職員室に呼び出されて、似顔絵の対象になった先生に詫びを入れたんだ」
「しかしその学級委員長も『出席番号一番のお前がやれ』じゃなかったっけ?」
「そういやそうだったな。適当だったなー(笑)」
◆
「俺、あの高校を受験するのってすごく冒険だった」
一人がそう言いました。わが高校は一応地域一番の進学校だったので、各中学校選りすぐりの優等生が進学してきたのです。
「俺の中学校は5~6クラスだったけど、そこから十人くらいしかこの高校に来てないしなあ。ただ受験の問題は解けた自信があった。それでも入ってみたら上には上がいて、(かなわないもんだなあ)と思ったよ」
高校入試くらいのときって、勉強ができるということになるととことんできる秀才がいるものです。
「俺らの時にトップで入ってきたK君って、500点満点の入試試験を500点で入ったんじゃなかったっけ?」
「いや496点だったよ。でも性格はいい奴だったよなあ」
最初に「冒険だった」と言った彼が続けます。
「俺卒業の時の担任の先生に、『君は入学のときはいい成績だったのになあ』って言われたのを今でも覚えているよ(笑)。でも今の人生を全然後悔していないしな」
思い返すと高校生活ってそんなものでした。
学生の時の"勉強ができる"ってどういうことなんでしょうね。もちろん試験で点数が獲れるということは進学したい大学の選択肢が広がるのですが、結局選べるのは数多い選択肢からのたった一つの人生でしかありません。
選んだ大学で一生懸命学び、選んだ就職先で一生懸命期待に応える。
今目の前の問題に誠実に取り組むことができれば選択肢は少なくてもなんとかなるんじゃないか、と選択した人生を歩んできた今ならそう言えます。
でもこれから人生の選択をしようというときは分からない未来を不安に思うもの。そんなときを一緒に過ごした友と語らうのはまた味わい深いものがありました。
「僕はちょっと不良ぽかったN君が怖くて苦手だったなあ」
「ああ、あいつは当時やたらカッコつけていたけど、今は実家をついで実直そのものになったもんな」
青春の語らいは長く続きました。
【ベストがマイブームだったんだなあ(笑)】