いよいよ今日は、第一回都市地域セミナー「鉄道遺産・鉄道資産を生かしたまちづくり」です。
セミナーは10時からですが、私は8時35分頃に会場の道庁赤れんが庁舎に到着。早すぎるかと思いましたが、すんなり中に入れてもらえました。
会場には、そもそも先にこの会場で北海道鉄道観光資源研究会(鉄観研)の皆さんが、二日間に亘って開催する「2018展示博覧会『北海道の鉄道 過去、現在、未来」のための、会場づくりやグッズの配置などを一生懸命やっています。
今回の我々の都市計画セミナーは、この会場と時間の中で、今日の午前中の時間を譲っていただいて開催することになるという、実に恵まれた形での開催となりました。
我々は、鉄道関係の財産をどうやってまちづくりにつなげるか、という視点での切り口ですが、鉄観研さんの展示博覧会となると、もう鉄道ファンのこだわりが随所に見られます。
会場への来場者には、来場記念に切符風の入場券が渡されて、ダッチングマシンで日付が入れられ、それに検札とさらにハサミが入れられます。
かなり懐かしい"硬券"で、もうここで鉄道ファンならでは、を感じます。
わが都市計画学会のメンバーやパネリストの皆さんも三々五々集まってきて、それぞれ受付やパソコン係、会場係などの持ち場について準備を進めます。
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セミナーの開会に当たって、西山支部長から挨拶があり、「中国をお手本としてきた日本の建物は、普通は南向きに作られるところだけれど、今日の会場であるこの赤れんが庁舎は東向きに建てられています。その理由はなかなかわからないのですが、明治時代は、東からくる脅威であるロシアに立ち向かい、また開拓の進む方向は東だったのではないか、などと考えてしまいます」という興味深いお話が披露されました。
第一部の講演は、釧路市立博物館学芸員の石川孝織さん。
自分自身の研究テーマでもある、道東の開拓や簡易軌道の歴史を紐解きながら、鉄道が北海道開拓の歴史に与えた意味を考えます。
「道東と鉄道の関係を見てみると、まずは弟子屈から硫黄を運ぶ手段が必要とされ、そこで鉄道が敷かれます。しかし硫黄はすぐに採れなくなり代わりに木材を運ぶ手段として利用されます。そして木材も尽きかけたころからは石炭を運ぶインフラとして利用されるようになり、その間に、大動脈は国鉄によって、またそこからさらに奥地へ延びる毛細血管的な交通手段として簡易軌道が作られて延長を伸ばしてゆきます」
「開拓当時は、湿原が多い道東では、道路を作ってもぬかるんでしまい当時の技術ではモノや人を運ぶ手段として一番現実的だったものが、枕木にレールを敷いた簡易軌道でした。それによって、人は産物を運び出し、かわりに食料も肥料も人も情報も運んだのでした」
「技術が進んで道路が作れるようなり、その上に自動車が走るようになった今日、開拓初期の人・モノ・情報を運ぶという目的から見るとその使命を終えたように見える。
しかし、鉄道が無くなっていくという事はその逆に、鉄道遺産が増えるということ。今なお働いている現役路線に、今日なりの意味を冷静に、具体的に見出すべきだと思う。
具体的に考えてみると、鉄道は技術的な限界から地形なりに作らざるを得なかったために、車窓の風景は比類ない景色を提供してくれる手段となっている。速さを追究しすぎる高速鉄道ではトンネルが多くなり景色はないがしろにされてしまっている。
また、物語としても歴史的な背景は文化的・社会的・観光的な価値が豊富に含まれている」
鉄道の歩みを振り返ることは、地域の歴史を振り返ることで、それはただマニアのためだけの物語ではない、という主張に、うなずく人が多くおりました。
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後半の第二部は、増毛町の堀町長と陸別町商工会の杉本事務局長を迎えてのパネルディスカッション。石川さんにはコメンテーターとして再登壇願って、コーディネーターは学会支部幹事の松田さんです。
増毛町の堀町長で、「廃線が決まった時に、国の地方創生拠点整備交付金事業がついてくれて、それで駅を立て直すことができました。その流れで、増毛小学校や木造三階建ての旧富田屋旅館も町で所有して外観を整えることになった」という紹介がありました。
また陸別町の杉本商工会事務局長からは、「鉄道廃線を受けて、レールを残したり車両を譲り受けることには地元から反対の声が上がった。しかし一年かけて全国の似たような施設を見て回り、運転や保線、車両整備などをすべて地元で行いながら始めて、今年で11年目。今では反対する人はいなくなりました」という話がありました。
どちらの町も、鉄道の財産を残して利活用している先進事例なので、これからも何度も訪れてみたいものです。
最後にコメンテーターとして再登壇した石川さんからは、硫黄を採って運んだ軌道の跡地が遊歩道になっている写真を見せてくれて、「この写真の説明を、ただ『アトサヌプリの遊歩道』と書けばそれで終わりですが、説明を『明治20年から29年まで、硫黄鉱石を運んだ北海道2番目の鉄道である『釧路鉄道』跡を利用したアトサヌプリの遊歩道です」とすると、歴史や物語や文化的背景が見えてきますよね。これがこの空間が持っているポテンシャルだと思うのです」というコメントがあり、私もまさにそのとおりだなあ、と感じ入ったのでした。
今回のこのような企画をしなければ、北海道鉄道観光資源研究会さんのことも知らなかったでしょうし、今日のこの場で鉄道をいろいろな切り口で考えさせられることもなかったことでしょう。
改めて、自分たちの関心事を狭い範囲にとどめているのではなく、他に仲間と協力者を求めて、横連携を模索すべきだと思いました。
快く連携をしていただいて受け入れてくださった鉄観研の皆様に感謝するとともに、もう一日開催される明日のイベントの盛会をお祈りします。
ありがとうございました。
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