北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「体育」の意味

2008-05-23 23:45:33 | Weblog
 仲の良い身体学の専門家のAさんといつもの世間話。

 彼は自分自身の感覚を、脳からではなく身体から考えるべきだ、という身体論の持ち主なのです。

 現代社会はインターネットの発達などによって情報化社会が進展し、たどり着ける知識は爆発的に増えたのですが、それでも自分自身は身体という制約のある存在にすぎません。

 身体ができないことに限界はあるし、だからこそ身体が出来ることを少しでも広げようとする肉体的鍛錬には大きな意味があるというのです。

「学校で体育って教科を習うでしょ?」
「ええ、私も習いましたよ」

「あれって『体を育てる』ということなんですが、体って昔は『體』って書いたように、骨と筋肉を鍛えることが体育だったんです」
「あ、なーるほど」

「その後は漢字が変わったこともありますが神経などの考え方も入ってきて体育になりました。でも結局は子供たちに『体を育てるとはどういうことか』ということを教えるのが本来の体育の意味なんですよ」
「ほうほう」

「それがある時から体育とはスポーツを教えることに変化して、下手をすると子供達にゲームをやらせてそれで体育を教えているつもりになっている先生もいます。これは本来の体育の意味からかけ離れてしまったいわざるを得ません」
「ではその本来の『体』とはなんですか?」

「骨、筋肉、内臓、皮膚という体に加えて、五感で感じるという感覚まで身体に関わる能力全てを含むことだと理解できるでしょう。例えば、最近食べ物には賞味期限表示がされていますが、あんなものは昔は無かったわけで、日が経って(まだ食べられるかな?)という時には口に入れてみて酸っぱくなっていたらはき出すなんてことをしたものです」
「確かに今はそういうことが無くなりましたね」

「口に入れてまだ食べられるかどうかを試す前に日付を見て捨ててしまっているでしょう?あれでは『食べ物が食べられるかどうか』という本来命に関わるような大事な身体感覚が養われません。熱いものに触ったらやけどをするという感覚だとか、転んだときにどう体をかばうと怪我をしないか、などというのは本来、物心付く前に子供にたたき込んでおかなくてならない身体感覚なんですがね」

    ※    ※    ※    ※

 確かに、最近は頭でものを考えすぎて身体感覚に正直に反応するというような体験が薄れています。それは実は人間として楽な幸せを謳歌しているのではなく、能力を伸ばすことをさぼっているだけなのかも知れません。
 Aさんの話はさらに続きます。

「物事を理解する能力をリテラシーといいますが、自分自身の体をどうやったらコントロールできるか、ということを『体リテラシー』という人もいます。自分自身の体をどうやってコントロールするかを教えるということが本当の体育なんですよ」
「なるほど、体重が増えたと思ったらダイエットしたり、出来ない動作を練習でモノにするということもありますね」

「自然の中で水や虫や石に触ると、冷たかったりぐにゃぐにゃしていたり、ぬるぬるしていますよね。そういう感覚だって身体感覚なんです。これは鍛えなくては行けないんですよ。そういう鍛錬の中から危険になる徴候や限界を体で身につけなくてはならないんですから」

 所詮は人間も動物であり、動物としての限界があるのです。パソコンのモニターの前に座っているとそんな原点すら忘れてしまっています。

 厳しい練習の成果は、「体が覚えている」という感覚になりますね。体は大いに鍛えましょう。
コメント
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