ある会合で、ZOOMを併用しての会議を開きました。
もうZOOMにも慣れてきて、遠隔地にいる参加者とのやりとりも含めて1時間半の会合は終了。
会議が終わってから「飲みに行く?」と誘ったところ、今日の参加者は4人。
その中の一人が、ZOOMのシステムをサポートしてくれていたA君で、「とってももやもやするので飲みに行きましょう!」とストレスが溜まっている様子でした。
居酒屋について「さっきのもやもやって何だったの?」と訊くと彼は、「いやあ、今日の会議もそうでしたが、ZOOMを使って会議をすると、参加している皆さんの発言が以前より少ないと思っていたんです。
それぞれの分野で名の通った人たちがこれだけ集まっていて、(あ、このテーマにあの人はどういうコメントをするだろう)と内心楽しみにしていたシーンでも、ZOOMのやり方に飲まれてしまって、あまり話をされなくて、(なんでコメントしてくれないんだー)と、とても残念に思ったんです。多分それが僕のもやもやの原因だと思います」と答えてくれました。
確かに議事は粛々と進行するけれど、以前のような不規則発言から会話があらぬ方向に進んでいくというシーンは少なくなりましたし、実はその脱線したような先に興味深い話題がたくさんあるのがこの会合の面白いところでもありました。
ZOOMでのリモート会議では、そうした余白的な部分がまったくなくなってしまったのが寂しいなあ、と思うのでした。
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すると二次会参加者の一人が、「実は僕、最近マンションに引っ越したんですが、モノを置くスペースが少なくなったので持っていた本もかなり処分したんです」と言い始めました。
「そのために、持っていた本をかなりPDF化して、デジタルデータに取り込んで本そのものはかなり捨てたり処分したりしました。でもそういうことができなかったのが詩集なんですよ」
「詩集…ですか?それはどうして?」
「詩というのは、文字があれが良いというものではなくて、まずページの中で文字と余白の絶妙なバランスが詩のもつ雰囲気を作り出します。そしてその総体である本そのものが全体としての"詩集"なんです。
だからデジタル化して文字を読めればよい、というものではないと思っていて、今言っていた"余白"って大事なことなんだなあ、と思ったんですよ」
実に言い得て妙な表現で、物事は本質だけがあればよいのではなくて、それを包み込む余白にも意味があって、そこからも豊かさを感じられるのではないでしょうか。
会議が終わった後の飲み会にこそ、実は人生の味わいがある。
ポストコロナとか新日常などと言われて、時代は変わったといわれますが、そんな雰囲気に流されずに、人とのかかわりやその一瞬を味わい尽くそうという思いは大切にする方が良いのではないでしょうか。
今日は"余白"という単語に感じるものが多い一日でした。
ちょっと無駄に見えるけれど実はそうではない、"余白"を大事にしましょう。