K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

新宿御苑

2007年4月28日晴れ

土曜日は休みですが、今日は職場に出ましたので、帰り道に新宿御苑に寄りました。

新宿御苑のルーツ
室町時代、応仁の乱あたりから下克上の風潮が高まり、戦国時代となりました。長い戦乱ののち織田信長から豊臣秀吉に受け継げられた天下統一事業は1590年小田原攻めで北条氏が滅亡して完成しました。この時、秀吉は徳川家康の駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を取り上げ北条氏の支配地だった関東を家康に与えました。1590年、家康は江戸城に入り、現在の新宿御苑の地を譜代大名内藤氏に与えました。
新宿御苑内の玉藻池の辺りに内藤氏の庭園がありました。
玉藻池(内藤氏の庭園跡)


この写真は新宿御苑大木戸門です。   看板は本日無料

大木戸門の名前の由来
お江戸日本橋を起点とする五街道の甲州街道の最初の宿駅は高井戸宿でした。日本橋と高井戸宿は16Kもありましたので、その間に宿駅を設けることにしました。内藤氏の屋敷の一部を取り上げて、新しい宿駅、内藤新宿とし、大木戸を設けました。
コレが新宿という地名の由来です。新宿御苑のあたりは現在、内藤町といいます。また、御苑の大木戸門の由来もお分かりになったと思います。


明治から現在までのあゆみ
1872(明治5)年に新政府の農業振興政策を担う内務省の機関「内藤新宿試験場」となり、欧米の技術や品種を含めた果樹・野菜の栽培、養蚕、牧畜などの研究が幅広く行われました。1874(明治7)年、新たに教育施設として農事修学所が設置されました。さらに、1879(明治12)年、宮内省所管の「新宿植物御苑」となりました。新宿植物御苑の時代には、現在日本庭園となっているところを中心に鴨池、養魚池、動物園など、皇室の御料地・農園として運営がなされました。

日本式庭園(中央・藤棚)

1898(明治31)年にここの責任者となった福羽逸人は2年後の1900(明治33)年、パリの万国博に菊の大作り3鉢を出品し、大好評を得ました。この時ベルサイユ園芸学校教授、アンリー・マルチネーに植物御苑を庭園に改造する計画の設計を依頼しました。 当時の設計図は残念ながら1945年の空襲で焼失してしまいましたが、マルチネーの設計に従って造られたと考えられます。

フランス式庭園


フランス式庭園の脇に2列づつ並木があります。

皇室の庭園だった時期を経たのち1949年5月21日に「国民公園新宿御苑」として一般に開放され、1950年に厚生省の所管となりました。
その後、1971年7月の環境庁の発足にともない、全国の国立公園などとともに所管を環境庁に移しました。そして2001年1月の省庁再編により環境省に所管を移し、現在に至っています。

上記の文は新宿御苑・新宿門の花市場のチラシを参考にしました。
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