2022年はピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini、1922~1975)の生誕百年に当たる。衝撃的な死から50年近く経って、知らない人の方が多いだろう。現在「テオレマ」(1968)と「王女メディア」(1969)がデジタル化されて上映されている。日本ではどちらも1970年に公開され、それぞれキネマ旬報ベストテン6位、7位に選出された。僕はアート映画に目覚めたばかりの中学生で、どっちも見ているのである。「テオレマ」は99年に開かれたパゾリーニ映画祭で上映されたが、「王女メディア」は公開以来だから何と半世紀以上が経ってしまったことに驚くしかない。
パゾリーニは戦後イタリアでもっとも注目された、あるいは「お騒がせ」だった人だろう。詩人、小説家、劇作家、脚本家、評論家として活躍し、映画監督にも乗り出して世界的に評価された。詩、演劇、映画を越境して活躍した人は、日本なら寺山修司が思い浮かぶ。しかし、パゾリーニはもっと政治的であり、闘争的であり、そして同性愛者だった。常にブルジョワ的な姿勢を攻撃し、ネオファシズムを敵視した。パゾリーニは、1975年11月2日にローマ郊外で暴行、轢殺された死体が発見された。公式には遺作「ソドムの市」に出演した少年との性的スキャンダルとされたが、今に至るも右翼勢力による謀殺という説が絶えない。
久方ぶりに見た「王女メディア」から。これはマリア・カラスが出演した唯一の映画として知られている。「世紀の歌姫」で、20世紀最高のソプラノ歌手である。名前が特徴的だから僕も知ってはいたが、最初に見た時は中学生だから聞いたことはなかった。大人になってCDを買って、今も時々聞いている。出演当時は長く付き合っていたギリシャの海運王アリストテレス・オナシスがジャクリーン・ケネディ(ケネディ米国大統領の未亡人)と結婚して、マリア・カラスは「捨てられた」失意の時代だった。数年前に公開された記録映画「私は、マリア・カラス」には、その時代の苦境が描かれていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/b5/ae08891fa454a540851b8d7a86f35bc0_s.jpg)
ウィキペディアのマリア・カラスの項目にも「王女メディア」が出てないぐらいだから、今じゃこの出演もすっかり忘れられているのかもしれない。しかし、堂々たる主演である。ギリシャ悲劇のエウリピデス「メディア」の映画化だが、事前に勉強していかなかったから、最初は戸惑うことが多かった。父の王位を奪った叔父から王位返還を約束されてイアソンは未開の国コルキスに「金の羊皮」を取りに行く。そこで王女メディアに助けられ皮を奪い取るも、叔父は約束を破って二人は隣国コリントスに逃れる。メディアが住む異国ってどこだ、奇岩怪石でカッパドキアかなと思ったら、やはりトルコでロケされたという。
隣国の国王に見込まれたイアソンは、メディアを裏切って王の娘と婚約する。そこからメディアによる苛烈な復讐ドラマが始まる。必ずしも判りやすい描写ではなく、メディアの不思議な能力による幻想的なシーンが多い。当時は凄いアート映画だなと思って見たが、そういう「前衛」ムードが60年代末という感じ。「異国」をイメージするために、冒頭から「民族音楽」っぽい音楽が流れ、その中には日本の地唄まで出て来る。ヨーロッパ人にはエキゾチックかもしれないが、映画の中に日本語が出て来たら我々には違和感がある。衣装をピエロ・トージが担当している。「山猫」「ベニスに死す」などで知られる衣装デザイナーで見事な仕事である。ギリシャ神話に詳しくないので難しい部分があるが、間違いなく凄い映画。
(「テオレマ」公開当時のチラシ)
「テオレマ」は完全な寓話として作られていて、まさに60年代の前衛映画である。題名は「定理」という意味だというが、見てても題名意味は良く判らない。あるブルジョワ一家に謎の男(テレンス・スタンプ)がやってきて、いつの間にか家族は彼と性的なつながりを持ってしまう。そしてある日彼は去って行き、家族それぞれが崩壊して行くのだった。映像も美しくなって(4Kスキャン版)、なんだか寓話の深みが増した気がした。パゾリーニ映画祭で再見したときは、なんだかもう意味がないような気もしたのだが、現代人の孤独と精神の不毛が今の方が身に迫るということか。
母親はシルヴァーナ・マンガーノ(「ベニスに死す」や「家族の肖像」)、父親がマッシモ・ジロッティ、娘がアンヌ・ヴィアゼムスキー(当時ゴダールの妻で「中国女」「バルタザールどこへいく」)と国際的に知られる俳優が出ている。そんな中で家政婦を演じたラウラ・ベッティという人がカンヌ映画祭で女優賞を獲得しているのが不思議。今ならもっと性描写も描かれると思うが、なんだかスラッと通り過ぎる感じ。だからこそテレンス・スタンプ演じる男は一体何を象徴しているのかと謎が深まる。冒頭で大会社の社長が会社を労働者に渡したというニュースが出る。「労働者自主管理」という発想があった時代だが、この発想が今になって新たに意味を持ってきた感じがする。
(ピエル・パオロ・パゾリーニ)
パゾリーニでは69年ベストワンになった「アポロンの地獄」(「オイディプス王」の映画化)やイエスの生涯を現代の目で描いた「奇跡の丘」がベストテンに入っている。それらもまた見てみたいが、それより公開以来やってないのが、70年代の映画。判らない、暗いという批判を気にして「デカメロン」(71)、「カンタベリー物語」(72)、「アラビアンナイト」(74)の艶笑シリーズを作った。その後がサド原作を現代に移した問題作「ソドムの市」。僕は「ソドムの市」はやりすぎだと思ったけど、「アラビアンナイト」ののどごしの良いウドンをツルツルッと食べるようなムードが結構良かった。これらもやって欲しいな。
パゾリーニは戦後イタリアでもっとも注目された、あるいは「お騒がせ」だった人だろう。詩人、小説家、劇作家、脚本家、評論家として活躍し、映画監督にも乗り出して世界的に評価された。詩、演劇、映画を越境して活躍した人は、日本なら寺山修司が思い浮かぶ。しかし、パゾリーニはもっと政治的であり、闘争的であり、そして同性愛者だった。常にブルジョワ的な姿勢を攻撃し、ネオファシズムを敵視した。パゾリーニは、1975年11月2日にローマ郊外で暴行、轢殺された死体が発見された。公式には遺作「ソドムの市」に出演した少年との性的スキャンダルとされたが、今に至るも右翼勢力による謀殺という説が絶えない。
久方ぶりに見た「王女メディア」から。これはマリア・カラスが出演した唯一の映画として知られている。「世紀の歌姫」で、20世紀最高のソプラノ歌手である。名前が特徴的だから僕も知ってはいたが、最初に見た時は中学生だから聞いたことはなかった。大人になってCDを買って、今も時々聞いている。出演当時は長く付き合っていたギリシャの海運王アリストテレス・オナシスがジャクリーン・ケネディ(ケネディ米国大統領の未亡人)と結婚して、マリア・カラスは「捨てられた」失意の時代だった。数年前に公開された記録映画「私は、マリア・カラス」には、その時代の苦境が描かれていた。
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ウィキペディアのマリア・カラスの項目にも「王女メディア」が出てないぐらいだから、今じゃこの出演もすっかり忘れられているのかもしれない。しかし、堂々たる主演である。ギリシャ悲劇のエウリピデス「メディア」の映画化だが、事前に勉強していかなかったから、最初は戸惑うことが多かった。父の王位を奪った叔父から王位返還を約束されてイアソンは未開の国コルキスに「金の羊皮」を取りに行く。そこで王女メディアに助けられ皮を奪い取るも、叔父は約束を破って二人は隣国コリントスに逃れる。メディアが住む異国ってどこだ、奇岩怪石でカッパドキアかなと思ったら、やはりトルコでロケされたという。
隣国の国王に見込まれたイアソンは、メディアを裏切って王の娘と婚約する。そこからメディアによる苛烈な復讐ドラマが始まる。必ずしも判りやすい描写ではなく、メディアの不思議な能力による幻想的なシーンが多い。当時は凄いアート映画だなと思って見たが、そういう「前衛」ムードが60年代末という感じ。「異国」をイメージするために、冒頭から「民族音楽」っぽい音楽が流れ、その中には日本の地唄まで出て来る。ヨーロッパ人にはエキゾチックかもしれないが、映画の中に日本語が出て来たら我々には違和感がある。衣装をピエロ・トージが担当している。「山猫」「ベニスに死す」などで知られる衣装デザイナーで見事な仕事である。ギリシャ神話に詳しくないので難しい部分があるが、間違いなく凄い映画。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4a/53/745e90205b99d4136135ee866ebe58d4_s.jpg)
「テオレマ」は完全な寓話として作られていて、まさに60年代の前衛映画である。題名は「定理」という意味だというが、見てても題名意味は良く判らない。あるブルジョワ一家に謎の男(テレンス・スタンプ)がやってきて、いつの間にか家族は彼と性的なつながりを持ってしまう。そしてある日彼は去って行き、家族それぞれが崩壊して行くのだった。映像も美しくなって(4Kスキャン版)、なんだか寓話の深みが増した気がした。パゾリーニ映画祭で再見したときは、なんだかもう意味がないような気もしたのだが、現代人の孤独と精神の不毛が今の方が身に迫るということか。
母親はシルヴァーナ・マンガーノ(「ベニスに死す」や「家族の肖像」)、父親がマッシモ・ジロッティ、娘がアンヌ・ヴィアゼムスキー(当時ゴダールの妻で「中国女」「バルタザールどこへいく」)と国際的に知られる俳優が出ている。そんな中で家政婦を演じたラウラ・ベッティという人がカンヌ映画祭で女優賞を獲得しているのが不思議。今ならもっと性描写も描かれると思うが、なんだかスラッと通り過ぎる感じ。だからこそテレンス・スタンプ演じる男は一体何を象徴しているのかと謎が深まる。冒頭で大会社の社長が会社を労働者に渡したというニュースが出る。「労働者自主管理」という発想があった時代だが、この発想が今になって新たに意味を持ってきた感じがする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2a/c5/24bec4a49898e64c2d4afb2c628bfffb_s.jpg)
パゾリーニでは69年ベストワンになった「アポロンの地獄」(「オイディプス王」の映画化)やイエスの生涯を現代の目で描いた「奇跡の丘」がベストテンに入っている。それらもまた見てみたいが、それより公開以来やってないのが、70年代の映画。判らない、暗いという批判を気にして「デカメロン」(71)、「カンタベリー物語」(72)、「アラビアンナイト」(74)の艶笑シリーズを作った。その後がサド原作を現代に移した問題作「ソドムの市」。僕は「ソドムの市」はやりすぎだと思ったけど、「アラビアンナイト」ののどごしの良いウドンをツルツルッと食べるようなムードが結構良かった。これらもやって欲しいな。