尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

クルコフ「ウクライナ日記」を読むー2014年「マイダン革命」の日々

2022年03月24日 23時12分17秒 |  〃  (国際問題)
 ロシアによるウクライナ侵攻から1ヶ月が経った。まあ2月は28日までだから、3月24日で29日目になる。この戦争については、3月初めに5回書いた。その後の展開をそろそろ考える時期だけど、この間書くことがいっぱいあって遅れている。そんな中でアレクセイ・クルコフウクライナ日記」(集英社、2015)という本を読んだので、まずこちらを紹介。この本を知らなかったが、大きな書店でウクライナ関連本をまとめた中にあったので買ってしまった。臨場感あふれる本だが、必ずしも判りやすい本とは言えない。本体価格2400円もするので、国際情勢に関心が深い人以外には必読とは言えないだろう。

 著者のアレクセイ・クルコフ(1961~)はウクライナを代表する作家として知られる。日本では「ペンギンの憂鬱」「大統領の最後の恋」という2冊が新潮社のクレストブックから翻訳されている。04年、06年に刊行された時には、かなり話題になったと記憶している。キエフに住んでいるが、レニングラード(現サンクトペテルブルク)に生まれ、ロシア語で創作する作家である。しかし、ウクライナの市民権しか持っていないし、ウクライナへの帰属心を持っている。日本で翻訳された小説は先の2冊だけだが、他に幾つもの著書がありヨーロッパ各地で高く評価されている。
(アレクセイ・クルコフ、キエフでヘルメット姿の写真)
 3月15日の朝日新聞に「ウクライナの国民的作家 クルコフ氏緊急寄稿」という記事が掲載された。かなり長い寄稿だが、編集サイドが付けたリードには「ロシアが恥ずかしい」「私たちは降伏しない」「独立と自由は譲らず」とある。ソ連時代、ロシアとウクライナの往来は頻繁で、クルコフもキエフで育ってキエフ外国語大学を卒業したが、祖母に育てられたため母語はロシア語なのである。そういう生育歴からロシア語で創作するが、いわゆる「親ロシア派」ではない。一方でウクライナでは過激な右派民族主義者も存在するが、彼らにも批判的である。ウクライナには東西の地域差があるが、クルコフは朗読会などで各地を訪れる機会が多く、全国の実情に通じている。「ウクライナ日記」は、そんなクルコフの2013年から14年に掛けての日記である。

 この本が読みにくいのは、自分がウクライナの政治情勢、政党や政治家にうといことが第一。クルコフは当然自分が知っていることは前提なしで書いている。詳しい訳注が付いているけど、なかなか付いて行くのが難しい。またこれは本当の日記だという理由もある。永井荷風は後世出版されることを意識して、日記を作品として清書していた。クルコフはもう何十年も日記を付けていると書いているが、この本は書かれてすぐに出版された。時事的緊急性から推敲は後回しという感じである。本人にしか関係ない家族や友人に関する記述も多い。また有名作家だから近隣諸国からの招待が多く、肝心なときにウクライナにいないことが結構多い。

 そういう風に日本で読むと判りにくいことが多いのだが、それでもこの本で幾つものことを教えられた。2014年2月に当時のヤヌコビッチ大統領が辞任に追い込まれた。ヤヌコビッチ大統領は「親ロシア派」の代表格で、この政変を「親ロ」「親欧米」で理解しようとする人が多い。日本でもこの政変を「アメリカの謀略」などと証拠も挙げずに決めつける人がいる。形の上では確かに「親ロシア派」の大統領が解任されロシアに亡命した政変だが、焦点は「自由と民主主義」か、「言論の自由のない社会」かの争いだった。プーチンに従って国策を変えたヤヌコビッチ大統領に対する反発が国民の怒りに火を付けたのである。
(ヤヌコビッチ)
 どういう事かというと、そもそものきっかけは2013年11月21日のアザーロフ首相の声明だった。長く交渉が続けられてきたEUとの連合協定の調印を間近に控えて、その交渉を中止すると発表したのである。当時はヤヌコビッチ政権でも、EU加盟を目指す方向性を否定していなかった。だからこその協定調印なのだが、直前に中止されたのは誰もがロシアの影響(というか、もっと言えばプーチンの指図)と受け取った。その頃、ウクライナに資金援助するとか、特別にロシアの天然ガスを割引するなどと持ち掛けられていた。このような不明朗なやり方、いつの間にかロシアの言いなりになるような政権に怒った国民は、独立広場に集結した。
(ヤヌコビッチとプーチン)
 この「広場」がウクライナ語で「マイダン」である。ただ「マイダン」と言えば、首都キエフの最大広場である「独立広場」を指すという。全国各地の都市には広場があって、そこに民主化運動家、野党政治家が集まったのである。それは僕らにとって、1989年5月の天安門広場を思い出すと言えば、通じるかもしれない。時期は真冬だったが、マイダンに泊まりこんだ運動は2014年3月まで続いた。クルコフはキエフ中心部に住み、マイダンまで徒歩で5分程度。家からはバリケードが見え、射撃音が聞こえた。クルコフは毎日のようにマイダンに通い、日々の出来事を記録したのである。

 政変の細かな経過はネットで調べられるので省略する。ここで驚いたのは、「院外団」の大きな役割である。院外団というか、民兵というか、内務省の外側にあって警察ではなく、マイダンにいる人々を襲撃するのである。ロシアはよくウクライナは「ネオナチ」だと非難する。マイダンにはかなり過激な民族主義者も集まっていたが、国家権力を背景にしたナチスの突撃隊のような組織は親ロシア派に存在した。そういう組織が野党政治家やジャーナリストを誘拐したり、暴力を振るったりする。警察は捜査しないし出来ない。そういう状況が続き、2月18日にはついにマイダンに武力攻撃が加えられ死傷者が出た。(クルコフはその時外国にいた。)その事件をきっかけにして、1989年の中国と違って、ウクライナではヤヌコビッチがロシアに逃亡した。
(新大統領に当選したポロシェンコ)
 僕がもう一つ驚いたのが、ヤヌコビッチの過去である。デモ隊のスローガンが「服役囚は辞めろ」だった。東部に生まれたヤヌコビッチには、実は高校卒業後に暴力団に入り窃盗(あるいは強姦)で2回実刑に服した過去があったのである。その判決は後に父の知人の有力者のつてで、無効になった。そして共産党に入党し、1996年からドネツク州で重職に就くようになった。97年からドネツク州長官を務め、2002年にクチマ大統領から首相に指名された。このような経歴を見れば判るように、ソ連や東欧で冷戦終結後に多数見られた「ギャング政治家」の典型だ。本当に暴力団出身というのがちょっと凄いが、こういう地域ボスが共産党を支えていた。

 そしてヤヌコビッチの失脚後、ロシアはもはや隠すこともなく、クリミアと東部2州に軍事行動を起こす。マイダンに欧米の特務機関員はいなかったが、クリミアと東部2州には紛れもなくロシアの特務機関員が存在した。ただし、クルコフはマイダン派、特に右派民族主義者にも厳しい目を向けている。政治が私物化されてきたウクライナでは、ヤヌコビッチ失脚に功があった勢力には新政権で有力がポストが与えられるべきだとポスト争いがはじまった。そんな絶望感の中で、ダーチャ(別荘)に行って子どもたちとジャガイモを植えたりするのが楽しみ。政治は激変しても、生活の日々は続く。そんな日記で、今回の戦争の直接の始まり、日中戦争で言えば「満州事変」に当たる時期を知るためには重要な材料になる。
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