尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

西郷輝彦、西村賢太、稲畑汀子他ー2022年2月の訃報

2022年03月07日 22時16分42秒 | 追悼
 2022年2月の訃報。2月は1日に早速一番大きく報道された石原慎太郎の訃報があった。「追悼」ということではないが、石原慎太郎に関しては一回書いた。何にしても戦後日本の「重要人物」ではある。石原慎太郎とともに弟の石原裕次郎を含めて、戦後日本を考える時に落とせないのは間違いない。今後は作品分析などを緻密に行うことで、「男」を前面に押し出したホモソーシャル(同性間の緊密な結びつき)な世界を批判的にあぶり出すことが大切だ。「星と舵」には本当に驚いたものだ。

 歌手・俳優の西郷輝彦が2月20日死去、75歳。64年にデビューして、橋幸夫舟木一夫とともに「御三家」と呼ばれた。それは僕にとって同時代ではないけれど、よく知っている。しかし、鹿児島出身だから芸名が「西郷」になったというのは今回初めて知った。67年の「星のフラメンコ」が歌手としての代表作。70年代以後は俳優としての活動が多くなり、テレビドラマ「どてらい男」や「江戸を斬る」(遠山金四郎役)などで人気を得た。森繁久彌に師事して舞台でも活躍。1972年に歌手の辺見マリと結婚したが81年に離婚。その後90年に再婚した。辺見マリとの間に生まれたのが辺見えみり。
(西郷輝彦)
 2月の訃報で石原慎太郎、西郷輝彦が知名度が高いかなと思うが、個人的には作家の西村賢太に一番驚いた。2月4日夜にタクシー乗車中に意識を失い、そのまま5日朝6時32分に死去。54歳。死因は心臓疾患と発表された。2011年1月に「苦役列車」で芥川賞を受賞し、同作は森山未來主演で映画化された。僕は気になるけれど好きにはなれないなという作風で、読んでるのも「苦役列車」だけ。今どき珍しい「破滅型私小説」を書き続けたが、それには生い立ちに大きな原因があった。中卒で肉体労働をしながら、古本屋で見つけた小説を読むようになり、私小説を自分でも書き始めた。忘れられていた大正期の作家、藤澤清造を再発見し「没後の弟子」を称したことでも知られる。遺稿は読売新聞に書いた石原慎太郎の追悼文だという。
(西村賢太)
 俳人の稲畑汀子(いなはた・ていこ)が27日に死去、91歳。高浜虚子の孫、高浜年尾の子で、子どもの稲畑廣太郎も俳人という俳句4代の家系である。父の死後に「ホトトギス」主宰を受け継ぎ、「有季定型」「花鳥諷詠」「客観写生」の伝統を守る立場にたった。朝日新聞の俳壇選者を40年近く務め、同じ選者の金子兜太とは丁々発止のやり取りが繰り広げられたという。俳句のことはほとんど知らないが、代表句には「今日何も彼もなにもかも春らしく」「落椿とはとつぜんに華やげる」「空といふ自由鶴舞ひやまざるは」などがあるという。判ったような判らないようなの世界である。
(稲畑汀子)
 国際的に活躍した指揮者の大町陽一郎が18日に死去、90歳。東京芸大を経てウィーン国立音楽大に留学、ベームやカラヤンの薫陶を受けた。1968年にドルトムント歌劇場常任指揮者となりオペラやバレエなどの音楽を手掛けた。1980年に日本人で初めてウィーン国立歌劇場を指揮し、82年から84年まで専属指揮者として活躍した。国内では東京芸大オペラ科教授を務め、また東京フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者(61年~70年)、専任指揮者(99年~)を長く務めた。オペラ以外にブルックナーやヨハン・シュトラウスなどでも知られた。著書も多くクラシック音楽普及に力を尽くした。
(大町陽一郎)
 俳優の川津祐介が26日に死去、86歳。訃報ではテレビの「ザ・ガードマン」が大きく出ていた。そうかあれに出ていたのか。僕も見てたと思うが、まだ俳優には関心がなかった。僕の印象では何と言っても、大島渚の「青春残酷物語」である。松竹の映画監督だった川頭義郎の弟だったと今回初めて知ったが、慶応大学在学中に木下恵介監督の「この天の虹」でデビューしたのもその縁だろう。この映画はこの前見たけれど、デビュー作だったのか。松竹映画では青春スターだったが、後にフリーとなって様々な役柄を演じている。昔の映画やテレビで活躍したので、古い映画を見るとよく出ているが、他にもダイエット本が売れたり、レストランを開くなど随分いろんな事をした人だった。
(川津祐介)
 漫談家(という肩書きになってる)松鶴屋千とせが17日に死去、84歳。芸名から何となく大阪の人のように思い込んでいたが、何と僕と同じ自治体に住んでいた。福島県から上京して松鶴家千代若・千代菊に弟子入りした。東京で活動した漫才師である。70年代に「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ〜」というフレーズで大いに売れた。もうほとんどの人には、わかんねえだろうな。
(松鶴屋千とせ)
 イタリアの女優、モニカ・ヴィッティが2日死去、90歳。もう時間が経ってしまって名前を聞いても判らない人が多いだろう。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「情事」「」「太陽はひとりぼっち」の「愛の不毛三部作」で不毛の愛を印象深く演じた。アントニオーニ「赤い砂漠」も素晴らしく、監督とは公私ともにパートナーだった。他にはジョセフ・ロージー監督「唇からナイフ」やこの前見たブニュエル「自由の幻想」などがある。長く活躍したが、後期の映画はほとんど未公開なのが残念。
(モニカ・ヴィッティ)
 韓国の評論家、文学研究者、李御寧イ・オリョン)が26日死去。88歳。非常に有名な人だった割に、訃報が小さかった。ノ・テウ政権で初代文化相になったのが良くなかったのか。1982年に『「縮み」志向の日本人』を日本語で書いて大評判になった。日本の比較文化論が欧米しか念頭にない事を批判し、日本独自とされた「甘え」論なども韓国に同様の言葉があると指摘した。当時は多くの人にとって盲点を突かれた批判だったのである。他の著書は「蛙はなぜ古池に飛びこんだか」など多数。
(李御寧)
 2008年にノーベル生理学・医学賞を受けたフランスのウイルス学者リュック・モンタニエが8日死去、89歳。モンタニエはHIVの発見者として知られている。80年代初期に謎の病気だったエイズ(後天性免疫不全症候群)の原因をめぐって、世界の研究者が激しい競争を繰り広げた。モンタニエのグループは、後にHIVとして知られるウイルスを発見し1983年5月30日に「サイエンス」に発表した。しかし、その段階ではウイルスがエイズの原因とは判っていなかった。ほぼ同時にアメリカのギャロのグループがエイズを引き起こすウイルスを確認したと発表し、両者の競争は仏米の政治問題にもなった。結局、最初に同定したのはモンタニエとされノーベル賞の対象になった。その後は問題発言が多くなり、新型コロナウイルスについても人工的に作られたと主張していた。
(リュック・モンタニエ)
内山斉(ひとし)、2日死去、86歳。元読売新聞グループ本社社長。日本新聞協会会長、横綱審議委員会委員長などを務めた。
渡辺充、8日死去、85歳。外務省中近東アフリカ局長、儀典長などを務めた後、96年から2006年まで宮内庁で侍従長を務めた。
柳家さん吉、15日死去、84歳。落語家。一時期「笑点」の大喜利メンバーを務めた。
竹本浩三、18日死去、89歳。吉本新喜劇の基礎を築いた脚本家、演出家。テレビ番組「パンチDEデート」の構成なども担当した。
林聖子、23日死去、93歳。新宿の文壇バー「風紋」の元店主。太宰治「メリイクリスマス」の登場人物のモデルにもなった。
安部一郎、27日死去、90歳。柔道10段。柔道の海外普及に務め、「一本」「待て」などの用語を日本語で普及させることにつながった。
大谷羊太郎、28日死去、91歳。ミステリー作家。70年に「殺意の演奏」で江戸川乱歩賞を受賞した。

ダグラス・トランブル、アメリカの映画視覚効果技師。7日死去、79歳。「2001年宇宙の旅」「未知との遭遇」「ブレードランナー」などの特撮を手掛けた。父親は「オズの魔法使い」の特撮を担当していた。
アイバン・ライトマン、12日死去、75歳。カナダの映画監督。「ゴースト・バスターズ」が世界的に大ヒットした。
ゲイリー・ブルッカー、19日死去、76歳。イギリスのバンド、プロコル・ハルムの創設メンバーで、「青い影」が大ヒットした。
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