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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」

2018年06月13日 20時30分03秒 |  〃  (新作外国映画)
 「ファントム・スレッド」と同じ日に、「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」という映画も見た。出来栄えは今ひとつのところが多いけど、内容と作り方はすごく面白い。フロリダ州にある「ディズニー・ワールド」の近くにある安いモーテルを舞台に、シングルマザーと子どもたちの「貧困」を見つめる。「夢の国」と隣り合わせの厳しい現実である。その中で苦闘するモーテルの管理人ボビーを演じたウィレム・デフォーがアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。

 さすがフロリダだからか、原色の夏色に画面が彩られている。壁が紫色のモーテルだから、一種おとぎの国っぽいけど、実は安宿。それなのに「マジック・キングダム・キャッスル」とか名乗ってて、高級リゾートかと思って予約してしまう人もいる。そこが貧困者向けになってるのはおかしいけど、家を失った人でも観光客のふりして泊ることはできる。住居にしてはいけないと散々言われているけど、事実上住みついて宿泊費を工面して生きている。そんな様子が描かれている。

 その中を生き生きと走り回るのは、夏休みの子どもたち。親はともかく子どもたちは仲良い。仲はいいけど、やっていることは悪ふざけばかり。親のしつけも何のその、いたずらして回ってる悪ガキどもだ。新しい車を見れば上の階から唾を吐く。入室禁止の機械室に入り込んで電源を落としてしまい全室で停電してしまう。冒頭からそんな子どもたちのいたずらと悪態の連続。「貧しくてかわいそうな子どもたち」というのは、現実に付き合うと手に負えない無法集団である。ついには火事まで起こしてしまって、子ども同士の関係も変わってしまう。

 冷房を求めてフロントに入り込む子らを、時に暖かく時に厳しく対処しているのがボビーである。だが彼も雇われ人に過ぎない。無料の食料配布車がやってくれば、裏へ回ってと言うしかない。親には一週間分の宿泊費を督促するのが仕事である。親の中には、時には安く仕入れた香水を遊園地に来る客に売りつけて稼いだりしている。だんだん追い詰められて、スマホで自撮りした写真で誘って客を求めるようになり…。児童福祉局がやってきて親子は引き離されるのか。楽園の裏にある現実の厳しさを直視している映画だが、子どもの目からはそれは判らない。知らなければ自分たちが貧しいことも認識できない。楽しい遊園地に忍び込める楽しい夏休み。

 監督のショーン・ベイカーは「タンジェリン」(未見)というiPhoneで撮影した映画で注目された。この映画は35ミリフィルムで撮影されたという。しかし最後に子どもたちがディズニーワールドを駆け回るシーンは、スマホで隠し撮りしたもの。この映画は6歳の子どもたちの目で、夢の国の表裏を表わすというアイディアが面白い。「貧困」が人々の連帯をむしばむ様をリアルに描いている。でもそれ以上にフロリダという風土が印象的。3枚目の写真にあるように、真夏の空を雲を広角で撮った画面を見ていると、足元の問題を忘れていたずらして回りたくなってしまう。
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素晴らしく面白い映画「ファントム・スレッド」

2018年06月12日 23時14分42秒 |  〃  (新作外国映画)
 ポール・トーマス・アンダーソン監督の新作映画「ファントム・スレッド」(Phantom Thread)は隅々まで磨き上げられた傑作で、美しくて怖い映画だった。今年のアカデミー賞で、衣装デザイン賞を受賞した他、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演女優賞、作曲賞にノミネートされた。主演のダニエル・デイ=ルイスはすでに3回のアカデミー賞を獲得しているから、さすがに4回目はなかったけれど、圧倒的な迫力で完璧主義者の衣装デザイナーを演じてる。これで俳優を引退すると言ってるそうで、この映画で専門家はだしの技術を身に付けたデザイナーをやるとか…。

 最初は時代がよく判らないけど、1950年代初めのイギリスが舞台になっている。レイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)は上流階級に大人気の「オートクチュール」(高級仕立服)のデザイナーである。完璧主義者であり、人間関係より「芸術至上主義」的な人物で、仕事の実務面は姉が仕切り、女性パートナーは居つかない。最近疲れ気味みたいだから休暇を取るべきだと姉に言われて、ドライブに出る。そしてホテルのレストランでウェートレスをしていたアルマ(ヴィッキー・クリープス=「マルクス・エンゲルス」のマルクス夫人)と知り合う。
 
 早速アルマを夕食に誘い、それから自宅へ、そして裸にして、どうなるかと思ったら「完璧な身体だ」という。モデルとして、インスピレーションを作家に与える素晴らしい身体を持っているという意味だった。洗練されたレイノルズに憧れて、「玉の輿」に乗れたのかと思うと単に素材に過ぎなかったのか。自宅に住むようになるが、万事は姉は支配している気配で、「恋愛」の対象じゃなかったのか…。そのうち、食べるときに音を立てるアルマに対して、「ジャマをするな」とレイノルズは怒る。

 この二人の関係はどうなって行くのかと思いつつ、豪華な衣装を楽しみながら見ていくと…。途中から驚くべき展開になっていく。ベルギー王女のウェディングドレスを頼まれ、そのことしか頭にないレイノルズが突然倒れる。まさに「恋の中毒」とでもいう展開で、どうなるか一刻も目が離せない。亡き母の幻影、姉の存在に呪縛されたようなレイノルズだったけど、アルマが思いもかけず存在感を発揮していく。その成り行きの恐ろしさに、つくづく人間の心の底をのぞきこむ感じだ。
 (ダニエル・デイ=ルイス)
 映画的な完成度が高く、社会性より作家性の映画だからアカデミー賞などアメリカの賞レースでは不利。僕は「シェイプ・オブ・ウォーター」や「スリー・ビルボード」と同じぐらい、素晴らしく面白くて出来がいいと思った。ポール・トーマス・アンダーソン(1970~)は、いつものように脚本も書いている。ダニエル・デイ=ルイスが2度目のオスカーを受賞した「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007)のように力強い映画だ。その後の「ザ・マスター」「インヒアレント・ヴァイス」は作家性が強かったが、今回はアカデミー作品賞にノミネートされるぐらいの大衆性はある。

 アカデミー賞を取ったマーク・ブリッジスの衣装デザインが本当に素晴らしい。ほれぼれと見ていて、これはオートクチュール界の裏話かと思っていたら足をすくわれた。音楽は最近ずっと監督と組んでいるレディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッドで、初めてアカデミー賞にノミネートされた。ポール・トーマス・アンダーソンの今までの人脈に中で作られていることが完成度の高さにつながっていると思う。監督はヒッチコックの「レベッカ」をイメージして書いたと言ってるようだが、なるほどという感じ。愛の映画に時代は関係ない。こういう映画もあるということだ。
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袴田事件の再審、不当な取り消し決定

2018年06月11日 21時25分26秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 台風が近づいて、列島各地で大雨が続いた。何か嫌な感じがしないでもなかったが、6月11日に袴田事件の再審(即時抗告審)の決定が出るということで、僕も午後1時ころに霞が関の東京高裁前に行った。すでに多くのマスコミが集結し、支援者や市民多くが門前を取り巻くように集まっている。著名事件の場合は大体そうなる。今回は「裁判」ではなく「再審請求」なので、「判決公判」はないから傍聴券を求める行列はできない。午後1時半に「決定書」が渡されるだけである。
  
 支援者の多くはバラの花を持ち、開始決定を疑っていないようだった。人が多くて状況が判らないけど、1時半を過ぎてもなかなか決定が伝わってこない。そのうち「えっ」などの反応が聞こえてきて、人々の間を「不当決定?」という言葉がさざ波のように通り過ぎて行った。写真の一枚目、「不当決定」の垂れ幕が反対側を向いている。ようやく真ん中に近づいた時にはこれしか撮れなかった。高裁に向かう姉の袴田秀子さんの写真もうまく撮れなかった。雨じゃなくて傘がなければもっと近づきやすかったんだろうが、まあ写真が目的じゃないから仕方ない。

 今回は僕も「やはり開始決定なんじゃないか」と思いつつも、検察側、裁判所の引き延ばし戦術のようなものを感じていた。どうも静岡地裁の開始決定に悪意を持っている感じで、「差し戻し」は2.3割の可能性があるかと思わないではなかった。この事件に関しては、静岡地裁の決定の前後に「袴田事件再審の決定迫る」「画期的な決定ー袴田事件の再審開始決定」「支援するという意味-袴田事件から」と続けて書いた。地裁開始決定は、本田鑑定に価値を認め、一審裁判中に味噌タンクから見つかった「血染めの衣類」をねつ造の疑いがあると批判した。そしてこれ以上袴田さんの拘束を続けることは著しく正義に反するとして、袴田さんの釈放を命じたのだった。

 再審決定を取り消すというのなら、袴田さんは恐るべき4人殺しの真犯人である。釈放したままでは、反対の意味で「正義に反する」はずである。しかし、高裁決定は「年齢や健康状態などに照らすと、再審請求棄却の確定前に取り消すのは相当とは言い難い」などとして釈放を取り消す決定はしなかった。今さら再び拘束されるという、あってはならないことは起こらないようだ。それはいいんだけど、そのことはこの決定が正義の観点から不当だということをまざまざと示している。袴田さんはすでに82歳。特別抗告で数年間使う間に死んでくれないかな、それまで釈放は取り消さないで置いてやるからというのが、言わず語らずのホンネなんではないだろうか。

 この取り消し決定が示すものは、この国の「国家権力」が死刑制度を絶対に手放さないという意思だと思う。多くの国で、死刑廃止は冤罪死刑囚の問題から実現した。特に「無実なのに執行されてしまった死刑囚」がいたら、普通の国民は死刑制度の残酷さに戦慄するだろう。そして日本でも冤罪の疑いが濃い死刑囚が何人も執行されてきた。近年では「飯塚事件」というケースがあった。その事件のDNA型鑑定は、後に冤罪が証明される足利事件と同じやり方で行われた。

 足利事件で弁護側が無実の証拠としたのが、本田克也筑波大教授の鑑定である。袴田事件の一審開始決定に結び付いたのも同じ本田鑑定である。一方、足利事件の再審で検察側が再鑑定を依頼したのが鈴木広一大阪医科大教授である。足利事件では本田、鈴木両鑑定共に、犯人とされた菅家さんのものではないとしたが、裁判所は鈴木鑑定のみを取り上げて再審開始とした。今回、東京高裁が本田鑑定の「再評価」を求めたのが、同じく鈴木教授だった。つまり、「本田鑑定」対「鈴木鑑定」の対立の構図が同じなのである。そして本田鑑定のやり方を評価すると、足利事件を超えて飯塚事件にも疑いが広がってゆく。

 今回の決定を見て思ったのは、そこまで本田鑑定を否定したいのかということだ。4年もかかった即時抗告審はDNA型鑑定をめぐって難しいやり取りが続いた。僕にも内容はよく判らない。そんな状況が続き、袴田さんも釈放されて、なんだか一段落という感じもないじゃなかった。でも、死刑囚の再審はもう開かせないという検察側の執拗な抵抗が実を結んでしまった。単に袴田事件に止まらず、死刑制度そのものを考え直さないと「国家」のたくらみを打ち破ることが難しい。そういうことなんだと思う。なお、ここでは細かく書かないけど、本田鑑定の評価とは別にして、前証拠を総合的に評価すれば「ここまで冤罪性の高い事件は珍しい」と思うほどである。最高裁に大きな期待は掛けられないが、それでも事件の本質を直視して欲しいと思う。
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アーネスト・サトウと幕末-萩原延壽「遠い崖」を読む①

2018年06月10日 22時58分29秒 |  〃 (歴史・地理)
 歴史家の萩原延壽(はぎはら・のぶとし、1926~2001)の大河歴史書「遠い崖」を読み続けている。これは幕末から明治にかけて日本に滞在したイギリスの外交官アーネスト・サトウの日記をもとに、激変する日本と向かい合ったサトウを描く大作である。朝日新聞夕刊に断続的に14年間連載され、1998年から2001年にかけて全14巻が公刊された。2007年から2008年にかけて朝日文庫に入った時に買ったけど、長いから読んでなかった。「明治150年」の今読まないと、ずっと読まないと思って読み始めた。

 第9巻まで読んできた。まだ残っているけれど、だんだん忘れてくるから幕末編を書いておきたい。どんどん面白くなってきて、このまま続けて読み終わりそうである。実に面白い読書体験で、人生で一度は読んでおかないと損するような本だ。幕末明治の歴史に限らず、日本の国際化を真剣に考える人は是非チャレンジするべきだ。とにかくアーネスト・サトウという人物が面白い。僕は奥日光が好きで、ブログでも何度も書いたけど、奥日光を多くの人に知らしめたのがサトウである。子息の武田久吉博士も山好きの植物学者で、尾瀬の保護に努めたことで知られる。だからもともとサトウには親近感があったんだけど、こういう人だったのかという面白さ。
 (アーネスト・サトウ、1843~1929)
 一番面白いのは、日本史の教科書に必ず載っている人物と直接会っていることだ。西郷隆盛とも勝海舟とも知人だった。海舟からは馬までもらっている。(乗馬が好きなのである。)しかし、この二人が江戸開城工作をしていることは最初気づかなかった。西郷とサトウはすでにずいぶん話せる関係になっていたのに、西郷は大事な時にサトウに情報を漏らさなかった。木戸孝允なんかも知り合いだが、伊藤博文井上馨のような20代で英国滞在体験がある人とは、ほとんど友人関係になっている。サトウも「薩道」と名乗って、幕末の志士のごとき大活躍である。

 「サトウ」(Satow)は変わった姓だけど、もともとはドイツ系の名前で父はリガ(今はラトビア首都、その頃はスウェーデン)からイギリスに来た金融業者だった。ルター派で、英国教会ではない。アーネストは数多い子どもの中でただ一人大学まで行った。当時は非国教徒はオックスフォードやケンブリッジには入りにくく、宗教色のない大学へ行ったという。だから英国の真のエリートではない。中国や日本は当時神秘的な東洋帝国として憧れる人が多かった。サトウもオリファントの旅行記を読んで日本に関心を持った。だから自分で希望して東洋勤務を選んだが、一種の「ノンキャリア外交官」だったのである。

 晩年になって引退後にロシア語を独習し、「戦争と平和」を原書で読んだという。言語的な才能があったのである。最初は中国で訓練を受け、1862年に通訳生として来日した。まだ19歳で、幕末明治のドラマを20代で体験したのである。会話を覚えるだけでなく、文語文にも習熟した。その知識がないと幕府や明治政府に日本文で公式文書を出せない。「サトウ」という名前も日本風で役だったというが、人柄的に付き合いやすかったらしい。若くて吸収力も早いが、常にノートを持って知らない言葉を聞くと書き留めた。それが後に辞書となって公刊された。酒も強いし、芸者遊びなんかも付き合うから、日本語をどんどん覚え友人も増える。重要人物との会談の通訳は任されるし、それだけでなく日本人とのつながりを生かして、一種の「情報将校」としても活躍した。
 
 よくイギリスは薩長、フランスは幕府を支持したと思われることが多いが、この本を読むとフランス公使ロッシュはほとんど本国の指示を無視した「個人外交」だった。当時のフランスはルイ・ナポレオンの第二帝政時代で、ロッシュは北アフリカで現地指導者にロマンティックな英雄を求めてしまう傾向が強かったという。日本でも洗練された宮廷外交ができる徳川慶喜に思い入れしたのは、ナポレオン3世時代らしいエピソードなのかもしれない。一方のイギリスがそこまで幕府一辺倒にならずに済んだのは、サトウを通じて討幕派の情報も得ていたからである。つまり現地語を駆使して反体制派の情報をつかめる外交官の重要性がよく判る。

 西郷隆盛とサトウの秘密会談はこの長い歴史叙述の白眉と言える。来日当初は生麦事件、薩英戦争で薩摩藩の印象が悪かったが、次第に薩摩藩の多数の人と交流を持ち実力を認めてゆく。そこからむしろ薩摩びいきになってゆき、西郷との会談では英国が支援してもいいとまで言ってしまう。しかし西郷はこれは国内の問題だと英国の支援を拒絶する。サトウが英国の中立政策を超えて個人的なことを言ってしまったのも「若気の至り」か。後にサトウが北京公使を最後に引退するとき、日本を訪問し大歓迎された。その時に松方正義から「西郷が大久保にあてた手紙」を見せられる。そこでは西郷があえてサトウを挑発し、イギリスのホンネに探りを入れる凄みが語られていた。サトウは著書「一外交官が見た明治維新」ではこの話は注意深く伏せられているという。

 西郷という人物の謎を秘めた恐ろしさがよく表れている。ある意味で西郷隆盛は、フィデル・カストロとチェ・ゲバラを一身にして兼ねている人物だった。戦略を駆使して成功を求める政治家であるとともに、永遠の夢想家でもあった。一方、徳川慶喜も負けていない。英国公使だったパークスも慶喜との謁見を終えると、その若々しい貴公子ぶりに魅せられてしまった。薩摩びいきになっていたサトウが心配するほどに。朝廷側の人材能力が不明な段階では、徳川慶喜率いる幕府がその後も政権を担当するというのもまんざらありえなくもなかった。それを西郷や岩倉具視がいかに崩してゆくか。しかし、その段階になるとサトウはもう外から見ているしかない。外交官の宿命である。将軍と天皇の関係など興味深い問題があるがまた別に書きたい。
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渡辺えり脚本・演出「肉の海」を見る

2018年06月09日 18時25分41秒 | 演劇
 5月は落語と浪曲に行ったのでお芝居を見る余裕がなかった。6月は続けて見る予定だが、まずは「おふぃす3〇〇」(さんじゅうまる)の「肉の海」を下北沢・本多劇場で見た(17日まで)。渡辺えりの新作で、脚本・演出・出演を兼ねて、歌もたくさん歌っている。出演メンバーは青木さやか尾美としのりベンガル三田和代など何だろうという感じのキャストが並んでいる。しかし、それより上田岳弘の「塔と重力」を原作として「純文学の新鋭とタッグを組み!」とうたわれた作品だ。

 「超音楽劇」とあるように素晴らしい歌がいっぱいある一種のミュージカルで、それだけでも見る価値がある。ストーリー的にはよく判らないというか、幾重にも入り組んだ「入れ子構造」に目くるめく体験をする。痛切な悲しみを抱えた「吾等の運命」に思いをいたしながら、1995年からの現代史を再構成する壮大な作品世界に魅せられられていった。阪神大震災を中心にしながら、東日本大震災から第二次世界大戦、中東のテロへまで想像の翼が広がってゆく。

 原作の上田岳弘(1979~)は2015年に「私の恋人」で三島由紀夫賞を受けた新進作家である。この時の対抗馬は又吉直樹「火花」だった。その後も「異郷の友人」で芥川賞と野間文芸新人賞の候補、「塔と重力」で野間新人文学賞候補、芸術選奨新人賞と作品は少ないながら注目されている。渡辺えり(1955~)は「私の恋人」を読んで、自分と似ていると取材で語り、その記事を読んだ上田が渡辺の公演を見に行く。公演後のアフタートークで二人が出てきたが、タルコフスキーの映画(特に「惑星ソラリス」)や宮沢賢治が好きだとか、共通点が多いと語った。
 (渡辺えり)
 そんな感じは見ていればよく伝わってくる。「肉の海」という言葉も、そんな生者も死者も存在する「もう一つの脳内世界」というイメージだと思う。確かに年齢を重ねてくると、脳内には過去の方がむしろ生き生きと存在していて、死者でさえ脳内によみがえってくる。「1995年」は、1月17日に阪神淡路大震災が起こり、3月20日には地下鉄でサリン事件が起きた。1995年1月17日、倒れてきた建物に閉じ込められ、そのまま二度と会えなくなってしまった。そんな人が出てくるが、「日本人全員がそれから囚われたままだ」という「恐るべき真実」をこの劇は暗示している。

 冒頭は「不思議の国のアリス」で、その後売れない雑貨屋の主人兼精神科医である「ベンガル」とその家族の物語になる。しかし、ほぼ全員のキャストが一人で二役、三役をやっていて、筋書きをきちんと書くことが難しい。舞台下手(左側)にアコーディオンやパーカッションなどのミュージシャンが常時存在して、歌のシーンでは演奏している。2017年1月には高校生だった「美希子」が出てくる高校生の場面もある。ベンガルが二度と会えない娘のセーラー服を着て踊る「名場面」もある。美希子の祖母である「三田和代」は震災を超えて、戦時下の思い出に生きている。あまりにも複雑で入り組んでいるので、どうもなんだかよく判らないけど、歌の力もあって心に響く。

 何が真実で何がウソなのか。誰が生きていて、誰が死んでいるのか。それすらよく判らない感じだが、脳内世界とはそういうもんだろう。僕は90年代後半の「歴史教科書」「性教育」へのバッシングに対して、1995年の阪神大震災、オウム真理教事件で日本が完全に変わってしまったと感じた。2001年の同時多発テロで「世界が変わる」前に、日本が世界に先んじて「フェイク」な世界に入って行ったと思う。そのような「フェイクな世界」にずっと自分が閉じ込められていると感じて生きている。それが「肉の海」から感じたことだけど、それは一つの感じ方に過ぎない。

 重層的、祝祭的な演劇は好きだから、この演劇は面白かった。渡辺えりが「演劇は大変だけど、世界で一番楽しい」というのがよく判る。(ホンの仕上がりは5日前だったという。)上田岳弘は「疲れそう」と言ったけど、頭を疲れさせ体を疲れさせるのがいいんじゃないとすぐに渡辺えりが返した。そういう元気があふれてる。僕は渡辺えり「劇団3〇〇」の本多劇場デビュー「ゲゲゲのげ」を見ている。今回が40周年記念公演で感慨がある。40周年記念の「4000円」席が後ろの方にある。そこで見てたけど、全体が見渡せて良かった。

 大林映画で懐かしい尾美としのりも頑張っていたけど、何といっても三田和代がすごい。渡辺えりは高校時代に山形県で「オンディーヌ」を見て感激した、その人と共演してると感慨深く語っていた。また「美希子」役の屋比久知奈(やびく・ともな、1994~)の素晴らしさにも圧倒された。沖縄出身で琉球大学の授業でやったミュージカルで注目され、2016年の『集まれ!ミュージカルのど自慢』で最優秀賞を受けた。その後ディズニーのアニメ「モアナと伝説の海」のモアナ役の吹き替えに抜てきされた。2017年4月に大学を卒業して、今後「タイタニック」や「レ・ミゼラブル」への出演も決まってる。要注目の屋比久知奈の堂々たる初舞台。もしかしたら、この芝居は渡辺えりの40周年記念であるとともに、屋比久知奈の初舞台で記憶されるかもしれない。
 (屋比久知奈)
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河島英昭、西城秀樹、フィリップ・ロス等-2018年5月の訃報②

2018年06月07日 22時28分55秒 | 追悼
 5月には多くの著名人が亡くなったけれど、僕が一番ショックだったのは河島英昭氏の訃報だった。(1933~2018.5.25、84歳)名前では判らないかもしれない。イタリア文学者で、東京外大名誉教授。イタリア文学の翻訳をたくさんした人である。特に20世紀前半の作家、チェーザレ・パヴェーゼの翻訳を、晶文社から出ていた全集で若いころにたくさん読んだ。確かそれは完結しなかったと思うけど、数年前に岩波書店から6巻の「パヴェ―ゼ文学集成」にまとまった。高いけど買ってある。

 他にもエーコ「薔薇の名前」、「デカメロン」、ヴェルガ「カヴァレリーナ・ルスティカーナ」(オペラで有名)など多数の翻訳がある。最近岩波文庫に「クアジーモド全詩集」「ウンガレッティ全詩集」が入った。まあイタリア文学に関心がない人には全然判らないと思うけど、僕は買ったまま読んでない河島氏の翻訳本をずいぶん持っている。ところで、画像検索しても河島氏の写真が出て来ない。翻訳した本はズラッと出てくるけど、本人の写真がない。新聞の訃報にも載ってないし、そういえば翻訳書でも見たことがない、たくさん読んでるけど、顔を全然知らない。そういう人である。 
 (西城秀樹) 
 一番大きく取り上げられたのは、西城秀樹だろう。1955.4.13~2018.5.16、63歳。あれ、同い年だったんだと訃報で初めて知った。歌謡界の本家「御三家」が皆存命なのに、「新御三家」から亡くなるとは。数年前に脳梗塞を患い、必死のリハビリで復帰したという話は聞いていたから、意外感はなかったけれど。デビュー当時、名前はもちろん知ってた。1979年の超大ヒット、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」も、あの頃生きてた人なら全員知ってるだろう。でも他の曲やバーモントカレーのCMなんかは忘れていた。僕はヘテロだからキャンディーズなどに比べて、男性スターには関心がなかった。映画にも何本か出たが、1974年の「愛と誠」が評判になった。

 本を書いた人。絵本作家のかこさとし。(加古里子 1926~2018.5.2、92歳)名前は知ってたけど、こんなにたくさん本を出していたのか、こんなに大きな訃報になるのかと驚いた。東大工学部から昭和電工に入った技術系の人だから、科学絵本をたくさん作った。僕の子ども時代とはずれているので、読んだことはないと思う。直木賞作家の古川薫(1925~2018.5.5、92歳)は、山口県下関の生まれで長州出身者の時代小説をたくさん書いた。オペラ歌手の藤原義江をモデルにした「漂泊者のアリア」で1990年に直木賞。津本陽(1929~2018.5.26、89歳)は和歌山県生まれで、1978年に太地町の捕鯨を重厚に描いた「深重の海」(じんじゅうのうみ)で直木賞。剣道が得意で剣豪小説を多く書いた他、信長を描いた「下天は夢か」で知られたが読まなかった。
   (かこ、古川、津本)
 芸能人では井上堯之(たかゆき 1941~2018.5.2、77歳)は、ザ・スパイダースのギタリストだった人。解散後は井上堯之バンドを率いて、多くの歌手のバックバンドやテレビドラマのテーマ曲をつとめた。TBS「NEWS23」のアンカーを務めた毎日新聞の岸井成格(しげたか、1944~2018.5.15、73歳)は安保法案に対する毅然たる批判が印象的だった。当然のことを言ってただけだが、政権側からの反発があったと言われた。
  (井上堯之、岸井成格)
 光や映像を使った「メディアアートの先駆者」と言われる山口勝弘(5.2没、90歳)はすごく重要な人だったらしいけど、あまり知らない。シベリア抑留を描いた画家、宮崎進(5.16没、96歳)も名前を知らなかった。知らないと言えば、登山家の栗城史多(くりき・のぶかず、5.21没、35歳)も知らなかった。7大陸最高峰「単独無酸素」登頂を目指していて、最後のエベレストの8回目挑戦中に亡くなった。その登山スタイルにはいろんな意見があるらしいが、僕には判断ができない。
  (山口、栗城)
 最後にアメリカの作家、フィリップ・ロスが22日に亡くなった。85歳。僕は数年前にまとまって読んで圧倒的な読後感をブログに書いた。デビュー作「さようならコロンバス」(1959)で26歳でピュリッツァー賞を受けた。これはアメリカ東部の階級が違う若者の愛と性を描いていた。まだ60年代末の文化革命前の「純潔」意識が強かったアメリカ社会を描いている。その後も性を鋭い風刺で描く作品が多く、それがノーベル賞から遠ざけたのかもしれない。毎年のように候補と言われていたが。「ヒューマン・ステイン」が日本で翻訳された中では最高傑作だと思う。(アメリカで賞を取りながら未翻訳の小説がかなり多い。)新潮文庫で再刊された「素晴らしいアメリカ野球」は最初に読んだ時の興奮が忘れられない。反ユダヤ主義で知られた飛行家リンドバーグが大統領に当選しちゃったという「プロット・アゲンスト・アメリカ」もすごかった。アメリカ文学で最高のユダヤ系作家。
 (フィリップ・ロス)
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星由里子、朝丘雪路、木下忠司、田村正毅等-2018年5月の訃報①

2018年06月06日 22時38分38秒 | 追悼
 2018年5月はかなり多くの訃報が伝えられた。一回目には映画関係にしぼって。映画は1950年代、60年代に最大の娯楽だった。キャストは20代、30代ぐらいだったから、当時活躍した人の訃報が毎月のように聞かれる。中には4月に亡くなったが、訃報の公表がずれて5月になった人もいる。最近はそういう人がかなり多い。まず女優として活躍した星由里子朝丘雪路
  (星由里子、若いころと近年)
 星由里子(1943~2018.5.16 74歳)は1959年に東宝映画でデビューした。その後、加山雄三主演の若大将シリーズで相手役を演じて人気となった。と言われているわけだけど、このシリーズは同時代には知らない。70年代に一時リバイバルブームが起こったけど、僕はパスしたので一本ぐらいしか見てない。最近星由里子の映画を見たなあと思ったら、神保町シアターで「沈丁花」(1966)という映画を見たんだった。これは4人姉妹の結婚物語で、上から京マチ子、司葉子、団令子、星由里子。下二人が結婚して上二人が残るという設定。こういう風に60年代東宝映画では「妹」的な役柄で、清楚可憐な役をやっていた。代表作を演じる前に映画界が斜陽になった世代。

 この世代の女優は大体、その後「テレビ」か「舞台」に行くが、星由里子は菊田一夫演劇賞を受けたように東宝大衆演劇で活躍した。二度目の夫が花登筺(はなと・こばこ)で、今じゃ知る人も少ないだろうけど、「細うで繫盛記」「どてらい男」などで大ヒットした脚本家で、大阪を中心に演劇・テレビで大活躍していた。1975年の結婚当時は週刊誌の広告に大きく出ていた。僕にはむしろそれで名前を知った感じ。若いころの清楚な魅力は、古い映画をいっぱい見るようになって最近初めて知った感じがする。獅子文六原作の「箱根山」などすごくいいと思う。

 朝丘雪路(1935~2018.4.27 82歳)は、名前で判るように宝塚出身。父親は日本画家の伊東深水、夫が津川雅彦で、もう完全にお嬢様育ちだったらしい。その「天然ボケ」が受けて、僕が知った時はほとんどテレビの司会者だった。先ごろ亡くなった高畑勲監督の「ホーホケキョ となりの山田くん」では声優を務めたけど、顔を出す俳優としてはテレビ、映画にいっぱい出たがあまり思い出すものがない。むしろ歌手としての活動の方が有名で、紅白歌合戦に10回出ている。1971年の「雨がやんだら」は大ヒットした。深水流と名付けた日本舞踊の家元で、その活動で芸術祭賞を取っている。すごく有名な人だったけど、テレビの活動が多いと思い出せなくなってしまう。
 
 映画音楽家の木下忠司(1916~2018.4.30、102歳)は巨匠木下恵介監督の弟で、木下作品のほとんどの音楽を担当した。そんな人がまだ生きてたのかと思ったのは2年前、フィルムセンター(当時)で特集「生誕100年 木下忠司の映画音楽」をやった時だった。本人があいさつした会もあったから驚き。「二十四の瞳」や「喜びも悲しみも幾年月」など有名な木下作品を担当したのは知ってたけど、他にも東映でずいぶん担当した。マキノ雅弘「関東緋桜一家」や、「ゴルゴ13」「トラック野郎」シリーズなんかもやってた。テレビの「水戸黄門」のテーマ曲「ああ人生に涙あり」、あの「人生楽ありゃ苦もあるさ」も作曲した。戦後文化に重大な影響を与えた人である。
 (木下忠司)
 映画カメラマンのたむら まさき田村正毅、1939~2018.5.23、79歳)は晩年に監督デビューしたけど、70年代、80年代の名撮影監督という印象が強い。その当時は本名である漢字表記だった。最初は小川紳介監督の三里塚シリーズを撮っていた。成田空港反対運動に寄り添うドキュメンタリーシリーズである。「三里塚 第二砦の人々」や「三里塚 辺田」などの驚くべき成功は田村カメラマンの力が大きい。僕もその頃から注目していたけど、その後劇映画に進出して大成功した。「龍馬暗殺」「さらば愛しき大地」「火まつり」「タンポポ」などである。21世紀に入ってからも、青山真治監督の「EUREKA」「サッド・ヴァケイション」などで素晴らしい出来栄えを示した。2014年の「ドライブイン蒲生」で監督もしたけど、まあこれは大成功とは言えなかった。
 (たむらまさき)
 イタリア映画の巨匠、エルマンノ・オルミの訃報もあった。(1931~2018.5.7、86歳)1978年のカンヌ映画祭パルムドール「木靴の樹」が翌年に日本でも岩波ホールで上映された。186分もある長い長い映画だったけど、19世紀北イタリアの厳しき農民生活を圧倒的な迫力で描いて忘れがたい。最近デジタル版がリバイバルされたので、今後も見る機会はあるだろう。ベストテン2位になったけど、1位はさらに長い4時間の「旅芸人の記録」だったから、これはやむを得ない。その後も「聖なる酔っ払いの伝説」などがあり、近年も「ポー川のひかり」「緑はよみがえる」など、まあ傑作とまでは言えないだろうが骨太の佳作を送り出している。
 (カンヌ受賞時のオルミ監督)
 他にも芸能界で映画にも出たという意味では西城秀樹がいるわけだが、まあ次回に回す。スーパーマンシリーズに出たマーゴット・キダー(5.12没、69歳)、毎日新聞の映画記者で「日活ロマンポルノ全史」を書いた松島利行(11日没、80歳)などの訃報もあった。
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歴史用語削減問題をどう考えるか-歴史教育を考える⑤

2018年06月05日 22時43分19秒 |  〃 (教育問題一般)
 「高大連携歴史教育研究会」という団体が、歴史教科書の用語削減に関するインターネット上のアンケートを取った。その話が2017年12月13日の朝日新聞に載っていた。そしてアンケート結果が6月4日に掲載されていた。歴史教育に関して何回か書いたが、もともとはこの話を取り上げるつもりだった。ついでにいろいろ書いてしまって、予想外に長くなってしまったけど。

 最初の記事では「龍馬、信玄、桶狭間…教科書から消える?」と見出しにあるように、「国民的になじみ深い」用語を削減対象にしていることで話題になった。これは「日本史B」「世界史B」を主に問題にしている。今は3400~3800にまで用語数が膨らんでいるという。近現代史の用語がどんどん増えるし、大学受験で差が付くようにするために増えて行ってしまうのである。
   (教科書からなくなる?龍馬、信玄、謙信)
 今後、新学習指導要領が「平成34年」から実施される。これじゃいつだか判らない。2022年度からということだ。そうすると20年近く実施された、地歴系科目のABという区分はなくなり、「地理総合」「歴史総合」の必履修科目の上には、「地理探求」「日本史探求」「世界史探求」という3単位科目が新設される。しかも内容的は「アクティブラーニング」的な取り組みが求められている。3単位なんだから、常識的に考えて今までの4単位科目の用語は大幅削減するしかないだろう。

 だから問題は「削減用語」をどうするかということになる。今は2018年なんだから、2000年生まれの人が18歳。高校3年生になってる人が一番多いだろう。2000年は「20世紀最後の年」だから、来年度からは小中高で教育を受けている人のほとんどが「21世紀産まれ」となる。(夜間中学や定時制高校では高齢生徒も多いから、全員にはならない。)そうなると、2001年に起こった「同時多発テロ」や2003年のイラク戦争を知ってるはずがない。2005年の小泉内閣による「郵政解散」も知らない。もう21世紀の話を歴史教科書に載せる時代なのだ。

 「概念用語」は外せない。「荘園制度」とか「幕藩体制」とか。世界史では「市民革命」とか「産業革命」とか。これがまた生徒はすごく苦手だ。歴史の面白さは、個々別々の歴史的出来事を総合して「概念用語」を使って理解することで、歴史がくっきりと見えてくることだ。しかし、僕の経験ではそういうパターン化抽象化が多くの生徒にはすごく苦手らしい。それが「学力」というもので、学力が低い生徒が苦手なのも当然か。それにしても「市民革命」を何度も強調したのに全然できてないのを見ると、やっぱり革命なき国民性なのかと思ったりもする。

 歴史が好きということを個別的なトリビアルな出来事に詳しいことだと思っている生徒がかなりいる。最近だと「歴女」みたいなのがいて、「御館の乱」をどう思いますかなどと聞いてくる。なんだっけ、それ? 「おたての乱」は上杉謙信没後に養子(甥)の景勝と養子の景虎(北条氏康の子)の間で起こった家督争いである。まあ越後、関東情勢には大事件だけど、全員が知る必要もないだろう。全然知らないと教員の権威に関わるかもしれないけど。歴史を学ぶとは、個別の出来事を記憶することではないということは何度も言っておかないといけない。

 それと別に、僕には大きな心配がある。「歴史総合」という名前で日本史、世界史を統合してしまうと、どうしても「国際関係史」や「比較史」になりがちなんじゃないか。その時に教員の力量が不足していると、「アジアの中で唯一近代化に成功した日本」という史観になるケースも多いんじゃないか。あるいは、近代化、工業化に成功した東アジア圏、後れを取っているイスラム圏といった比較。日本史、世界史を総合した授業を構想すると、ともすればそんな理解で説明してしまう可能性。そのように簡単に世界各地の歩みを比べて、日本優位を説く。そんな心配があるのである。

 それに比べれば、個別の人名をどうするかはそれほど問題ではない。武田信玄上杉謙信は字を書かせる意味で、僕も取り上げていたと思うが、試験にはあまり出さない。信長、秀吉、家康ばかり取り上げるのも「中央史観」のような気もするけど、時間がない中ではやむを得ない。幕末は時間が近いだけ、人々の思い入れも大きいと思うけど、坂本龍馬も昔より重要性が減っている感じがする。よく考えてみれば、山内容堂や後藤象二郎ではなく、龍馬だけ大きく扱うのもおかしい。幕末政局のリアルを求めていくと、脱藩浪人が日本を「せんたく」してしまったかの大ロマンも少し色あせた感じがする。それはともかく、人物に関しては、余りしぼり過ぎると上の世代の常識が通じなくなって、「今の若いもんは…」という二次被害を呼ぶ恐れが強い。そっちも心配。
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歴史教員の「詩と真実」-歴史教育を考える④

2018年06月03日 22時22分54秒 |  〃 (教育問題一般)
 「詩と真実」とはゲーテの自伝の題名だけど、ゲーテほどの詩人じゃなくても、人には「詩と真実」があるだろう。歴史(あるいは社会科系一般)の教員も当然何らかの理想を抱いて教員を目指したはずだ。まあ理想と言うと大げさかもしれないけど、何でもいいから単に職を得たいということじゃないだろう。教師は授業を受け持つし、授業で接する生徒が一番多い。でもなって見て判るのは、自分の仕事の中で授業が占める位置の小ささではないだろうか。

 社会科系授業時間が減らされていった話は先に書いたが、今では週あたり2時間、あるいは3時間程度の科目が多い。進学高校で「日本史B」「世界史B」を担当する人は週に4時間の授業をしているかもしれない。でも高校の「日本史A」「世界史A」は2単位もので、週2時間。公民科の「現代社会」「政治経済」「倫理」も2単位である。新学習指導要領で新たに設置される地歴科の「地理総合」「歴史総合」、公民科の「公共」も全部2単位科目である。

 週に2時間ということは、祝日や学校行事に被ることがあるから、時には週に1回しか授業がない。最近は月曜の祝日が多いから、月曜に授業があるクラスは他クラスと時間数の差が大きい。それを考えて時間割を工夫したり、行事の方をずらしたりするけど、この差はやっぱり大きい。テストのときには、時間数が最低のクラスに合わせた試験範囲になるから大変だ。一年中追われてばかりいる。国が学力の心配をするなら、まず「ハッピーマンデー」を止めたらどうだろう。

 2単位ものだと、一つの学年を全部やることが多いと思う。6クラスなら12時間だから、他学年の授業も受け持つ。少子化でクラス数が減っているから、多くの学校では2つか3つの科目を担当しているだろう。そうすると一つの科目だけに専念できない。それに6クラスあるとすれば、同じ授業を週に6回繰り返すことになる。僕の経験では、学年8クラスを担当して週に16時間の授業をやったことがあるけど、いくらその科目が好きだと言っても同じことの繰り返しには飽きてしまう

 自分が生徒だったときは常に一回切りの授業体験なので、こうしてみたい、ああしてみればなどと生意気に考えていたわけだが、実際になってみればそうも言ってられない。教師からすれば授業は「絶えざる繰り返し」という側面がある。一方、生徒指導や学校行事はやはり一回性が高く、どうしてもそっちの方が気にかかる。クラスに問題がある、保護者対応が大変といったときには、授業は「こなしていく」という意識でやっていくこともある。

 そんなに理想的な学校ばかりではないのだから、どうしてもそうなってしまう。そういう現実の中で、果たして「歴史総合」という科目はどうなるか。これは日本史、世界史を総合した近現代史に特化した高校の必履修科目だから、やがて国民のほとんどが受けることになる。指導要領の最初の方に、「諸資料から歴史に関する様々な情報を適切かつ効果的に調べまとめる技能を身に付けるようにする」とあるように、「アクティブラーニング」的に展開することが求められる。

 こういう科目の必要性は理解できる。世界史、日本史のどっちかだけで高校を卒業できてしまい、世界の近現代のことはほとんど知らない…ということじゃいけない。だから方向性としてはいいと思うけど、多分2単位でこれを展開しても、あまり大きな成果はあがらないだろう。また今回の指導要領に顕著なことは、「領土問題」への過度なこだわりだ。地歴・公民のどこを見ても、北方領土、竹島、尖閣諸島のことが明記されている。科目の目標と時間数から見て、日本の領土問題はそれほど大きく扱うべきことなのか。もちろん実際には、できるもんじゃないだろう。

 このように政権の考え方が教育現場にストレートに持ち込まれる時代になっている。だからこそ教員側には「何のために教師になったのか」をはっきり意識することが必要だ。社会科教師であっても歴史が専門の人ばかりじゃないし、特に近現代史の史料をちゃんと読んでいるとは限らない。「歴史総合」を実施するためには、教員に対する研修も大事だ。しかし、そういうことだけでは多分ダメだと思う。教師であることの「詩」の部分、何のために過去の出来事を学ぶ意味があるのか、生徒に真正面から語る大切さである。「戦争」の歴史をちゃんと伝えていくこと、「民主主義」や「選挙」の意味を伝えていくこと。それは社会科の教員に課せられた歴史的使命だ。

 何のために教師になったのか。時にはそんなことを聞いてくる生徒もいる。その教科が好きだったとか、生徒と接することが好き、影響を受けた先生がいるなどいろいろあるだろうが、ここでは思い切って、「世界平和のため」とか「愛のため」と言ってみてはどうか。一度言っちゃえば自分でも恥ずかしくなくなるし、案外そういうことなのかと自分も生徒も納得しちゃえると思う。
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歴史が「暗記」じゃダメなのか-歴史教育を考える③

2018年06月01日 23時34分54秒 |  〃 (教育問題一般)
 社会科系の科目、中でも「歴史」(日本史、世界史)は「暗記」中心だからダメだとよく批判される。暗記じゃない「考える授業」をやるべきだと、歴史家や歴史教育者団体も言ってきた。今じゃ文科省まで「アクティブラーニング」推進だから、なんか今までと違う工夫をしないといけない感じだ。学力が高く、学習意欲も高い生徒を教えている教員は、どんどん様々な試みをすればよい。でも、問題行動もあれば不登校もある、ごく普通の中学や高校で「自ら学ぶ」授業なんかできるのか。

 そういう問題意識で書きたいと思うが、まず最初に「暗記」はバカにしたもんじゃないということを言いたい。数学(算数)は思考力を測る教科だとされるけど、じゃあ全国学力テストを前にして「過去問対策」をたくさんやるのは何故か。出題パターンと解法を覚えさせてしまおうということじゃないのか。また、多くの生徒にとって、一番の暗記科目は英語だろう。日本史の登場人物は大河ドラマなんかにも出てくる。でも英単語の多くは、実人生に出て来ない。慣用句や前置詞も丸暗記するしかない。英語はそれだけじゃなく、話す・聞く能力も大事な「実技教科」でもあるから暗記科目と思われないだけである。多くの生徒にとって、ほとんど勉強と言えば「暗記」なんじゃないか。

 そして実際に世の中では「暗記」が大切だ。この世の中にいっぱいある資格試験検定などは暗記が重要視される。もちろん資格によっては「実技」や「経験」の方が重視されるが、関連する法規などの暗記は必ず出てくる。それが多くの人の苦労である。世の中のすべての試験を全部「考える問題」にすることはできない。採点にかかる人的、時間的費用が多くなりすぎるので、実技や面接試験なんかの前に暗記中心のテストで選別するのが普通である。高齢になれば、認知症かどうかが「暗記力」で試されたりする。人生の最初から最後まで暗記が付いて回る。

 大体教員採用試験そのものが、まず「教職教養」なんかの暗記力テストで選別している。多くの採用希望者すべてに「授業体験」させたり、大論文を書かせたりしている余裕はない。教師になるにも、まず「暗記力」である。この冷厳な現実を無視して、学校では「自ら学び考える力」を育てるんだと意気込んでも、学力真ん中以下の生徒にははた迷惑なんじゃないかと思う。それよりもまず、どうすれば「暗記力」が高くなるのか、きちんと教えることが先決だろう。

 よく歴史の年代を「語呂合わせ」で覚えるというのがある。それもあっていいけど、僕の考える「暗記力」対策はそういうことではない。「内容をきちんと把握する」「ちゃんと自分の字で書いてみる」「100点じゃなくて90点でよい」である。最後のものから説明すると、社会科以外のテストもたくさんあるというのに、何も歴史で100点を取らなくていいだろう。いや、歴史が好きで、歴史で点を稼ぎたい人は100点目指して頑張って欲しい。でも他教科の方が得意な人はそっちに力を注ぐべきだ。普通は90点なら(難度や平均点にもよるが)ギリギリ「5」に入ってくる。歴史が得意じゃない人は100点じゃなくて90点を目指せば、うまく行けば95点、悪くても80点ぐらいにはなるだろう。

 「1560年、尾張の大名織田信長は、桶狭間の戦いで駿河の大名今川義元を破った。」
 まあ、こういう出来事を教えるわけである。以上の文章の中で何が一番大事か。
 「〇〇〇〇年、〇〇の大名〇〇〇〇は、〇〇〇の戦いで〇〇の大名〇〇〇〇を破った」
 これで〇の中に当てはまる言葉、数字を入れなさいと言っても無理だ。穴が多すぎる。だから、こんな問題は出ない。尾張とか駿河は出ないに決まってるけど、「尾張の大名〇〇〇〇」という風にヒントに使われるわけだから、覚え方が違ってくる。「織田信長」は人名として大事だからどこかで出るに違いない。どう出題されるか判らないけど、織田信長は出ると考え、書いて覚え込む。

 まあ普通戦国時代の勉強だったら、信長や秀吉が出ないわけがないに決まってる。上で書いたのは当たり前すぎて役立たない。だけど基本は同じだ。100点を目指すなら試験範囲全部をすべて理解しないといけないけど、90点コースならまずは大事なことを押さえて「自分なりのノートを作る」ことに尽きると思う。自分の字で書かないと、絶対に覚えられない。普通の人はそうだろう。そして、大事なことは「理解力不足の生徒ほど、大事なことを落として、どうでもいいことを覚えてしまう」ことである。これは法則である。

 だから「試験対策ノート」は教師が見た方がいい。「何がテストに出るか教えて?」と言われても、教師は誰も教えない。でも「試験対策のノートを作ってみたんですけど、これでいいかどうか見てくれますか」と持ってこられたら、「どんなに忙しい先生でも見ない人はいないよ」と僕は生徒に言ってきたけど、絶対そうだよね。違うかな? そうやって実際に持ってくる生徒は数からすれば少ないけど、必ずクラスに何人かはいる。そういうフィードバックの積み重ねで、自然に「暗記力」が伸びてくる。中身をちゃんと理解しないと暗記しようがない。当たり前である。

 週に2時間、3時間程度の授業で「考える授業」と言っても、大したことはできない。史料を基に自ら調べて考えるような授業をどこかでやるのはいい。でも超進学校は別にして、普通の学校では一年中そんなことをやってたら教科書がほとんど終わらない。社会科系も受験に出るんだから、どこかで「大事なことを詰め込む授業」もやるしかない。そして世の中の中高生の半数は大学進学ではなく、高卒、あるいは専門学校卒で何か資格を取りたいと思っている。だから、「暗記は大事」と明言してちゃんと暗記力の高め方を教えておかないと実社会で苦労させちゃうんじゃないか。
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