星のひとかけ

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事物の魂

2006-07-22 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)

   小説の唯一のモラルは認識であり、実存のそれまで未知だったどんな小片をも
   発見しない小説はインモラルなのだと。だから「事物の魂に向かう」ことと
   善き模範をあたえることとは、二つの異なった、和解しがたい意図なのである。

   「事物の魂」のほとんど聴き取れない、秘かな声が聞こえるようにするために、
   小説家は詩人や音楽家とは逆に、自分自身の魂の叫び声を黙らせる術を知らな
   ければならない。
                (『カーテン 7部構成の小説論』/ミラン・クンデラ 集英社

この、クンデラの文学論というか小説論と一緒に、かつて読んだ『日本流 なぜカナリヤは歌を忘れたか』(松岡正剛 朝日新聞社)を時々ひらく。日本の職人の「仕事」「仕組」には「分」とともに「当」がある、「当」を求めて「分」が動いて居るところがある、と正剛さんは言う。この「当」とは、西洋的合理的な「目標」「目的」とは異なり、そのため、職人がその「当」に近づいてくると、「ちっとも説明してくれないということになる」と書いている。

、、、なんだか、両者の語っていることは近いのじゃないかと思う。小説が与えてくれる素晴らしい歓びがあるとしたら、「当」に触れた、垣間見た、と思わせてくれるところかもしれない、と思う。「事物の魂」の秘かな声を求めていく時、小説家は(小説は、ではなく)、ますます寡黙になる。

、、昔の人はよく「分」ということを言った。私の母もよく言った。。母が教えてくれたことで一番確かだったと感じることは、人と人は「違う」ということだ。そう言い切られたら、自分の中の「分」を見極めようとせざるをえない。「分」が見えて、初めて「当」に触れることの歓びに近づけるのかな、、、と年を重ねて思う。
「分」を超えることばかり考えている「無分別」なやつが「若い」ということ、、なんだね。「無分別」はキライじゃないけど。