prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「大日本帝国」

2006年05月28日 | 映画
長いこと右翼反動映画め、と思ってそっぽを向いていた映画(1982年製作)。
で、それをわざわざ見る気になったのは、こちらが「右傾化」した、というか「進歩派」に愛想をつかしたせいもあるが、一番大きいのは脚本の笠原和夫のインタビュー集「昭和の劇」を読んで、作者がどれだけ真剣に「戦争」を描こうとしていたか知ったから。

もっとも、脚本にこめられた意図がそのまま画になればいいのだが、そうはいかないのが映画の難しいところ。
特に戦争の凄惨さの表現については、「プライベート・ライアン」あたりを見ているとどうしても作りもの臭さが目についてしまう。飢えてるはずなのにみんな栄養いい顔してる、とか、機銃掃射で撃たれたらあの程度の傷で済むわけがない、とか。
日本の監督は「リアリズムが身についていない」というのが笠原の主張だが、首肯せざるをえない。演出だけでなく、役者の芝居の質のせいもある。

市村萬次郎の昭和天皇が、メイクから発声からそっくり。
インタビューを読むと、はっきり天皇批判を意図しているのがわかる。「御聖断で戦争が終わるんだったら、なんで早く下してくれなかったんだべ」「天子さまは宮城だよ、ずーっと」「天皇陛下、お先に参ります」「大元帥閣下が、アメリカと手を組むはずがありません」などなど。
フツーに見てこれが天皇批判でないわけないのだが(なんなら「右翼」の側からの)、未だにソクーロフの「太陽」を公開できないこの国の空気の中で見ると不思議とそう見えないところがある。見る側が批判を受け取ろうとしない、というか、直視しようとしないというか(後註・「太陽」公開決定)。

もっともこちらがそれほど天皇を批判的に見ているかというとそうでもなくて、「天皇の戦争責任」(加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣の鼎談集)で提出された、昭和天皇を日本の近代国家としての基礎を作るための立憲君主制に忠実な君主であろうとした存在、と位置づける考えに割と納得したりもしているのだが。

夏目雅子(!)のニ役の一つがクリスチャンで、もう一つが南方のマリアという現地人という作意。恋人の篠田三郎が自分がやったわけでない罪で裁かれて死ぬのは、偽キリストみたい。

なんでも、田原総一郎が公開当時反動映画と呼んでいたのが、後年反戦映画と言い出したらしい。節操がないには違いないが、それだけ重層的な造りということでもある。

やたらとみんな死にたがる。素直に生きのびたがったり、論理的に勝つための工夫をするより美意識に殉じようとする傾向が強くて、非常に自閉的。
(☆☆☆)



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