ほとんどまったく身体の機能がマヒしている人間が針の穴ほどの意思表示の方法を通して外部との接触を切望する話として、戦争で四肢を切断され顔面もほとんど吹き飛ばされた男を主人公にした映画「ジョニーは戦場に行った」をちょっと思い出したが、あれでは主人公がモールス信号を知っているという設定だったからもう少し能率がいい。
こちらは使う頻度順に並べたアルファベットを順に読んでいって、それといいたい文字のところで瞬きして確定するというおそろしく能率の悪いやり方で、特に前半は片目しか見えず口もきけない男の主観にカメラが密着して朦朧とした画像に主人公に話しかける人物のバランスの悪いアップがえんえんと続いて、これ最後まで見通せるか不安になった。
それが良くも悪くもさほど苦労せずに最後まで見通せるのは、小出しに外部と意思の疎通ができていくのにつれてカメラが客観的な視点をとりだし、過去の回想が入って自由にふるまう主人公の姿を見せるようになる、といった具合にカメラワークも自由になっていき風通しをよくする構成の工夫があるから。
DVDの5.1chだと前半、主人公の声が後方のスピーカーから聞こえてくるのだが、後半はセンタースピーカーから聞こえるようになるというのも、意識のポイントが内部にとどまっているのから客体化されていく表れだろう。
ただし、完全に想像の産物であるイメージ・ショットの造形はいささか凡庸だし、飽きさせないように工夫している分、表現の突きつめ方が甘くなっている。
昔、映画評論家の金坂健二が、「ジョニーは戦場に行った」を、“意識の流れ”の技法を駆使した原作のように主人公の主観に即して真っ暗な画面にきれぎれに意識の断片が呟かれるような、映画が映画であることをやめるような映画になるべきだった、そうならなかったのは、と原作者でもある監督・脚本のダルトン・トランボが「ハリウッドの飯を食いすぎた」からだと評したことがあるが、これもそういう口当たりのよさを意識した形跡がある。
(☆☆☆★)