映画学校入学希望の米兵が撮ったビデオ、フランスのドキュメンタリーの取材、イラクのテレビ取材、米軍施設内の監視カメラ、尋問時の記録、兵隊の家族が思いのたけを語るサイト、テロリスト側が撮ってネットに流した映像、などなどさまざまな映像のフェイクがコラージュされた作り。
米兵が仕掛け爆弾にひっかかったところを米軍側のビデオで見せたかと思うと直後に、同じ光景がテロリスト側が隠し撮りしてネットにアップしたものをつなぐなど、「立場」「視点」による違いを際立たせてはいる。
ありそうでなかったのは、アメリカ国内で大量に流された大本営発表映像のフェイク。もともとフェイクだからということか。
マスコミに流される映像がリダクテッド(編集済み)であることは確かだが、それに対する私的映像がどこまで編集によって切られた「黒塗り部分」を埋めるのか、私的というだけでは保障されない。ネットの情報がマスコミの偏向がかかっていないからといって「正しい」とはとても言えないように。
ラストの悲惨な被害者の写真の目の部分に「黒塗り」をかけたものを長々と流すのは、もともと被害者のプライバシーを守る黒塗りが公開するためのエクスキューズになってしまっていることや、この悲惨な映像自体フェイクかもしれないと思わせる効果など、さまざまなことを考えさせる。
もっとも、考えさせるのが目的なのかもしれないが、映画として見ると作者自身の視点が定まっていない、考えのなんだかはっきりしない羅列的な作りで、かなり退屈する。
ブライアン・デ・パルマって人は来日していてもずうっとカメラを持ってプライベートに撮りまくっていたというから、「自分の目で見る」のと「カメラを通してみる」のと違いがないようなものなのだろう。
なんだか可笑しいのが、フランスのドキュメンタリーが何も起こらないところに長々とヘンデルの「サラバンド」を、それも「バリー・リンドン」で使われたのに近いオーケストラ編曲で流していることで、これドキュメンタリーがえてして荘重な音楽をつけるのをからかい気味に再現しているのかと思わせる。
(☆☆☆)