劇場だと集中力が途切れないけれど、画面が小さいとつい気が散るのでながら視聴ができる吹き替えとなります。
前は字幕原理主義に近かったけれど、吹き替えの良さにだんだん寄ってきています。
字幕は俳優の生の声が聴けるという魅力もありますが、外国語イコール生の声というわけではないので、昔のマカロニ・ウエスタンなど英語に吹き替えた版がむしろ主流で、だいたいイタリア映画はアフレコが主体らしい。撮影中でもスタッフがおしゃべりをやめないからという俗説がある。
芸術映画でも「ノスタルジア」のドミツィアナ・ジョルダーノはイタリア語を話せるけれどイタリア語のセリフは吹き替えでした。理由は不明。
「グレイストーク」のアンディ・マクダウェルがあまりに南部訛りがきつかったのでグレン・クローズが吹き替えた例なんてのもある。
よくあるのが、明らかに非英語圏を舞台にしていても英語のセリフで通している例で相当に違和感ある。「SAYURI」など日本を舞台にしていても英語喋っていましたものね。こういうのは吹き替えの方がいい。
舞台劇の映画化などセリフが多い映画は字幕をずうっと追っているときつくなってくる。「十二人の怒れる男」は吹き替え版の方が正直おもしろかった。
猛烈な罵り合いが続く映画も吹き替え向き。「ある結婚の風景」「バージニア・ウルフなんてこわくない」など、日本語セリフの方が脳内にコトバがじかにとびこんでくる感じで迫力ある。
いずれにせよ、翻訳の良し悪しは生命線なのですけれど、なかなか論じられない。論じられるだけの語学力がある人は多くないだろうし、需要もない。
戸田奈津子の翻訳がよくネットであげつらわれたりするけれど、本当におかしいのかというと必ずしもそうでもなかったりする。「ジュラシック・ワールド」の恐竜の歯の数について、みたいに先入観先行のこともある。
アニメはもともと吹き替えが当然ですが、あちらのはリップ・シンクが徹底している。口の形がセリフとぴったり合うようにしているので、豚が英語をしゃべる「ベイブ」までも合わせていた。こういうのは日本語吹き替えではわかりません。
日本語はあまり口をはっきり動かさなくても発音できるのでテレビアニメの口パクでもなんとか恰好がついた、とは高畑勲説。
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