実は何十年も前にジャーナリズムに情報提供がなされていたのにも関わらず握りつぶされた、というよりそれ以前に無視されていたのであり、当然記者たちも手は白くない。
田中角栄の金権疑惑が報じられた時、いわゆる田中番の記者たちは目新しいことは何もない、みんな知っていたことだと言い放ったというが、そういう狎れこそがジャーナリズムと権力ともに腐敗させてきたのだった。
立花隆がジャーナリストが「知っている」というのは「記事にできるくらい(裏を取って)知っている」ということだと反論したが、さらに言うと「記事にするつもりがある」「記事にすべきことだと判断できる」ところまで含めて「知っている」と言えるのだろう。
基本的に「知っている」のはジャーナリストではなく内部告発者、リークする側の人間であり、彼らとの損得感情も含めてだがそれだけでは終わらない人間関係をなあなあにならずにどれだけ構築できるかという力が試されるのがジャーナリストだと見ていて頭ではなく肌で感じてわかる
隠された秘密を暴くのではなく、ある意味わかりきったこととして狎れていたことを改めてそれではいけないのだと記者たちが自分たちも含めて意識を切り替えるドラマとしてまとめられるだろう。
だから非常にヒロイックな調子を抑えているし、かといって過剰に反省ばかりしているわけでもない。
さらに本当に腐敗にメスを入れ剔出するためには神父個人のレベルではないのはもちろん、事件を起こした神父を他の教区に転出させることで臭いものに蓋をしていた枢機卿のレベルですらなく、カソリックの性的抑圧システムそのものが問題であり、バチカンを含めたシステムそのものを俎上に上げなくてはスクープの意味はないとマイケル・キートンのデスクが粘り抜く。
記者たちもなまじの正義感やヒロイズムではなくいい意味でシステムの一部になりきってジャーナリズムの本来の機能を果たすのであり、彼らを演じる俳優たちのアンサンブルがまた見事。
すぐれて知性のコントロールが効き、バランス感覚に富んだ姿勢で作られていること自体が権力の介入や他にスクープをとられるのではないかといった要素以上に全編にわたる緊張感につながっている。
こういう冷静な映画がアカデミー作品賞をとったというのは、なんだかんだ言ってアメリカの映画界と言論との底力を改めて示した。
秀作。
(☆☆☆★★★)
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