とはいっても、バンクシーその人はまったく出てこないし、その正体を追うという体裁でもない。
追うのは、バンクシーの作品に対するニューヨーク市民のさまざまな反応の方で、とにかく作品を前にした者は警官は別として全員スマホで写真を撮ってSNSに流すといってよく、その反応を含めて作品、作者だけでなく見る者伝達する者を含めてのぐトータルのあり方がつまりパフォーミング・アートになっているといっていい。
バンクシー「ダズ」ニューヨークというタイトルをつけた所以だろう。
単なる落書きとして塗りつぶす場合もあるし、ここは俺の縄張りだから写真を撮るなら五ドル払えと言い張るやつもいる。作品が描かれた壁をひっぺがしてオークションにかけたり画廊に並べたりする奴までいる。
バンクシー自身は所有権や対価を求めるわけではないので、やりたい奴のやりたい放題で、一方で「作品」は作者だけのものではないという現代美術に一般的なテーゼに対応もしている。
作品はグラフィックだけとは限らないので、ロボットの死神が空き地を走り回ったり、再開発の予定地に散らばっている石を積んでスフィンクスを作って置いておいたりもする。
これだけの活動をして捕まらないでいるというのは、予めかなりの程度水面下で根回しをしているのだろうとナレーションで言われるし、資金もかなりかかっているはずでどこから手当てしているのだろうと思う。
総体として見えてくるのは注目されること自体、流通すること自体が価値になっていて、その「内実」は二次的なものにすぎないという事実と、それにともなうマネーの流通というのも相当程度対応している世界だ。
やや話がずれるが、中東のテロリストがロケット弾でダンボを撃ち落とすという合成画像も出てくるが、実は第二次大戦で「ダンボ」というのは撃墜されたパイロットの救出作戦だという意味のコードネームだという。とすると、スピルバーグの「1941」で将軍が映画の「ダンボ」を見ながらぼろぼろ泣いているというシーンの意味も変わってくるのではないか。
「ギャング・オブ・ニューヨーク」で描かれたファイブ・ポインツが落書きアートのメッカになっていたのだが、今は再開発を待っている状態なのを知る。落書きをアートとして申請して取り壊しできなくする手続きを防ぐために先手をうって白く塗りつぶしてしまったというところからアメリカ社会のビジネス一辺倒ぶりがわかる。
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バンクシー・ダズ・ニューヨーク 公式ホームページ
バンクシー・ダズ・ニューヨーク|映画情報のぴあ映画生活
映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』 - シネマトゥデイ