戊辰戦争で官軍側が幕府軍(賊軍)を押し気味の中、中立を保っていた新発田 (しばた)藩が幕府軍につくと見せて、処刑を待つばかりの罪人たちを無罪放免と引き換えにするのを約束して時間稼ぎをし、その間に幕府軍から官軍に乗り越える工作をするというわけだが、裏切り・寝返りの連鎖がどうもきちんと観客に<打ち込まれる>ところまでいかず、どうしてそうなったのかよくわからないまま先に進んでしまう。
笠原和夫脚本の「仁義なき戦い」だと、どうしてそうなったかわからないなりにいつの間にか納得させられてしまう(特に3作目「代理戦争」)のだが、描かれていないところで何をしていたのかブランクになっている部分を想像に預ける処理が巧みとは言えると思う。
山田孝之をはじめとした罪人たちに対するに、れっきとした剣術道場の道場主の仲野大賀 といった本来水と油のような立場の連中を集めたわけだが、立場が違い過ぎ、他のメンバーも多彩というよりアンサンブルになってない。
ラスボスというか本来の敵は阿部サダヲの家老なのが途中からわかってくるのだが、村人たちをバタバタ首を刎ねるまでなんでそこまで悪逆な真似をするのか、納得できないまま場面だけ進む。
納得できないといったら、ラストもどうもモヤモヤする。
集団抗争時代劇の血も引いているのははっきりしているけれど、「十三人の刺客」だったら島田新左エ門と鬼頭半兵衛(オリジナルでは片岡千恵蔵と内田良平、リメイクでは役所広司と市村正親)がそれぞれのふたつのチームのリーダーになって、その上で各人それぞれの役割が明確に割り振られたわけだが、この場合どうもチームの体をなしていない。
1927年生まれの戦中派を任じている笠原和夫は「七人の侍」評で、「バラバラなのは浪士団(七人)の方」とし、なぜ飯を食わせるというだけで浪士が集まるのか、「こうした『純情』は私より一世代ほど上の方々の作品の中で縷々拝見する、共通の人間像である」「『純情』に欺罔の匂いを嗅ぐ。不幸である」と書いている。
どうしても不純さと恨みから人間を見てしまうという「不幸」は、笠原作品にそれなりの一貫性を持たせたわけだが、逆に観客は深入りしないできれいごとから見てしまう狡さがあるわけで、そのあたりどうもすれ違い気味。