prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「侍タイムスリッパー」

2024年09月16日 | 映画
時代設定は少し現代より前なのでしょうね。登場人物でスマートフォンを使っているのはいなくて、みんなガラケーだった。
今や「撮影中の」時代劇はほぼ絶滅しているのだからそういうことになる。それともパラレルワールドか。

監督の安田淳一が照明から衣装から技術部門で何役もこなしている。自主映画だからということになるのだろうけれど、画面はそれなりに厚みがある。

助監督役の沙倉ゆうのがまた現実のスタッフとしても助監督ほか何通りもの職能をこなしていて、エンドタイトルに何度も名前が出てくる。

沙倉がカメラに写らないところでカチンコを叩いているのはどんなものだろう。画と音のタイミングを合わせる必要があるのからカチンコ叩いているのではないの?
山口馬木也がタイムスリップしてきて間もなく黒船来航の140周年記念イベントのポスターを見るシーンがあるが、その140というアラビア数字を江戸時代の人間が読めるのは変。

ひとつのシーンでカメラのセットアップ(位置変え)をしないのもひっかかった。いちいちカット割りするところを描くわけにもいかないのだろうが、これは知っていてついた映画の嘘の範疇に入るのかもしれない。

後半の展開はかなりひやりとするところがある。実際にやったらシャレにならない。虚実皮膜を順番を変えて見せた。

決闘シーンで向かいあったまま長い間をとるのは「椿三十郎」か。
拡大公開して、三連休の中日にしてもずいぶん客が入っていた。





「夏目アラタの結婚」

2024年09月15日 | 映画
柳楽優弥の内心がナレーションで語られるところでつまづいた。説明的を通り越して説明そのもの。
さらに獄中の黒島結菜が死刑囚だというのにさほど柳楽が積極的な理由もないのにかなりややこしい手続きで面会するのも、第一刑務所側が家族でもなければ弁護士でも相手に面会許すものかなと疑問に思ったら将棋倒しにウソ臭くなった。

第一、柳楽が児童相談所勤務だときちんとあらかじめ順を追って描かれておらず、なんだか一人合点なまま先に進んでしまう。

獄中結婚というと宅間守が現実の例としてあったし、「夏目」の作中でも支援者がすることあると語られる。
豊川悦司の死刑囚に一方的に妄想的に思いを寄せる女を小池栄子が演じた映画「接吻」があったが、小池は自分が演じるヒロインが理解できなくて万田邦敏監督に相談したら理解できなくていい、というか理解できなくて当然ですと言われてわからないまま演じたのだが(結果、各種の演技賞を受賞し演技者としてのステータスを確立した)、この場合のわからなさというのは常識から出た当然の疑問なのに対して、「夏目」の場合は話を悪くいじくり回したわからなさとしか思えない。
伏線の回収が後知恵にしか見えないのです。

面会室の場面ではどアップが多用され、黒島の歯が乱杭歯ということもあって照明ともどもおどろおどろしい。





「エイリアン ロムルス」

2024年09月14日 | 映画
「エイリアン」「エイリアン2」の場面やセリフをなぞるところとそれを超えて工夫するところが混ざっている。
エイリアンの体液が強酸という設定はこれまでのシリーズのどれより活かされていた。無重力状態を取り込んだのもありそうでなかった。便宜上、宇宙船内部は重力がありましたからね。

クライマックスがいったん済んでからさらに押すというのは「エイリアン2」以前からのジェームズ・キャメロンの得意技で、いまやアクションもののデフォルトにすらなっているが、アルバレス監督は「ドント・ブリーズ」でもそうだったが、二段構えのクライマックスの二段目になってから妙に押す方向がズレるのは惜しい。

アンドロイドがほぼ主役で実際キャラクターの振り幅は一番大きい。
先輩のアンドロイドで前に出てきたのとそっくりなのが出てくるのは、それを演じている俳優がAIで機械的にコピーされてるみたいで気味が悪い。

主演のケイリー・スピーニーは小柄だなと思ったら1m55cm。シガーニー・ウィーバーの1m80cmと対照的。「プリシラ」の主演なのね。





「ランサム 非公式作戦」

2024年09月13日 | 映画
レバノンで拉致された外交官を救出する実話の内幕を描くわけだけれど、人名が仮名になっているのがラストで明かされるように、具体的な経緯はほぼ作っているのでしょうね。何しろどこの誰に接触してどう交渉したかは実際の当事者でも部分的にしか知らない性格のオペレーションであり、対外的にも身代金を払ったとは口が裂けても言えない建前なのだから。

孤立無援になった外交官ハ・ジョンウがバディを組むのがチョ・ジフンのタクシー運転手というのも先行したヒット作に倣ったのではないか。

ロケ効果が絶大で、場所が絶えず移動するスケール感やバディ同志のやりとりのユーモアのセンス、関係性がくるりくるりと変転する展開など、実際がどうだったのかわからないのを幸いに、はっきりエンタメに振り切っている。

全斗煥独裁下の話で同時に公開されている「ソウルの春」ともだぶり、外交部と安全保安部とでは大統領との距離で力関係が決まっているらしいことが示唆される。

外交官もタクシー運転手もアメリカ志向なのが興味深い。同じ外交官でもアメリカはじめG7はソウル大卒のエリート向け、その他はその他の地域向けと決まっているらしい。





「熱烈」

2024年09月12日 | 映画
途中で主人公が勝つもので映画が終わってしまったのかと思った。
というか、ブレイクダンスでどちらが勝ったのか判断する決め手って何だろう。

長州力によく似てるのが出てるのが可笑しかった。

ダンスシーンはいいけれど、ちょっと映像処理が凝りすぎ。テレビで見られないところまで見せようとすると、そうなるのだろう。





「ナミビアの砂漠」

2024年09月11日 | 映画
特に前半、衣装や小道具に緑と茶系統の色を使ったコーディネートが目につく。
河合優実はすぱすぱ実にタバコをよく喫うのだが(ちなみに女の登場人物にタバコを吸うのが目立つ、男は吸ってなかったと思う)その細く巻かれたタバコの本体が茶色で喫い口が緑、ヒロインのかぶっている帽子がてっぺんに近い方が茶系統で鍔に近い方が緑、スマホケースの縁が緑といった調子。

前半で着ているシャツに書かれている文字がЩAМAН(キリル文字でシャーマン)で、後ろは読み取れなかったがbetween God and なんとかと書いてあった。
途中から鼻ピアスをするのが土人風。
(余談だが、水木しげる「ほんまにオレはアホやろか」を最近読んで、水木サンが南方で会った現地人のことを土と共に生きる人とでもいった意味で土人というコトバを肯定的に使っているので、倣いたい)

半分冗談で言うが、緑や茶は植物の色つまり自然の色で、ヒロインは自然児といった性格づけではないか。
もちろん舞台は現代日本で生の自然(とは、しかし何だろうね)とはほぼ無縁だが、ヒロインのふるまいは破天荒には見えないがよく考えてみると破天荒。昔だったら奔放なキャラとしてまとめられただろうが、もっと自然。

金子大地と寛一郎が髪の長さは違うが同じ人間じゃないかと思うくらい見分けがつかないし、おそらくあまり描き分けようとしていない。本質的には似たような男ということ。

タイトルのナミビアの砂漠って、精神科医がパソコン画面を通して問診するバックの壁紙が人工的な自然の情景になっているのと通じる。
よく医者のセリフが聞き取れなかったのだが、躁鬱と双極性障害を混ぜて喋ってなかったか。昔の躁鬱病が今は双極性障害と言っているわけだが、ヒロインはあまり病んだ感じがしない。そこがいい。





「夜よ、こんにちは」

2024年09月10日 | 映画
1978年、イタリアのモロ元首相が誘拐されて殺された史実をもとに誘拐した極左集団「赤い旅団」の内側から描く。

一味のマヤ・サンサが美人というのがありそうな話で、過激派に紅一点というのは目立つからにせよ、美しさで「階級」が上になりそうなのを拒絶しているという理屈なのだろう。

結婚式でロシア民謡を歌ったり、交霊会を開いたりといった場違いなようで、そういうこともありえただろうなと思わせる描写の分量が多い。

ラストでモロが解放されるイメージシーンなど明らかにその範疇からも逸脱している。キリスト教民主党のメンバーだったせいもあるのか、教皇が関わる描写がたびたび挟まる。




「愛に乱暴」

2024年09月09日 | 映画
江口のりこの夫役の小泉孝太郎がパブリックイメージとは全然違っていて、誰かと思った。
歳は小泉が1978年生まれ、江口が80年生まれで少し小泉の方が年上なのだが、江口の思春期の息子みたいに見えた。
なんだか江口をうるさそうにあしらったり、愛人をいきなり連れてきて別れてくれなんて虫のいい幼児的なこと言うしね。

ゴミ集積場から不審火が出たり、本来分別しなくてはいけない缶(それもチューハイの缶)が混じっていたり、カラスが集まっていたりといった不穏な空気の醸成が優れている。ただスマートフォンで見る日記みたいな匿名の文書の意味はよくわからなかった。

江口の昔の勤め先の上司の凄いいい加減な応対と、内心を押し殺した江口のリアクションがますます不穏さを煽る。
石鹸作りの講師というのがきれいごとの暮らしというイメージにぴったりで、しかし実質は非正規雇用であっさり予告も何もなしに働き場を失ってしまう。
キレて狂暴に暴れるのが定番なのが妙にずらして収まるのがまた不穏。





「アリゲーター」

2024年09月08日 | 映画
冒頭でワニを見世物にしている動物使いが本当にガブリとやられるのを見ていたワニ好きの少女がワニを裏返しにするとおとなしくなると隣の父親に耳うちするのだが父親は耳を貸さず、MCはMCで事態を取り繕うのにばかり気をとられているという芝居の組み立てが面白く、脚本のジョン・セイルズの職人的上手さが生きた。

少女が土産に赤ちゃんワニを買ったら父親が糞が汚いとまた勝手にトイレに捨ててしまう。この女の子があとで生きてくるなと思ったら案の定。

トイレに捨てた赤ちゃんワニがでかくなって下水道で生きているという都市伝説から発想したのだろう。(「グレートハンティング2」に下水道のワニ狩りが出てくると聞いたが、ホントかね)
「第三の男」(Harry Lime Livesという落書きが下水にしてある)を小ネタにしているところもあるが、カラー撮影では白黒ほどの効果はあがらず。

CGがなかった時代の製作('80)なので、ワニの巨大感を出すのにワニの口だけ、尻尾だけの模型とかも併用しながら、水しぶきの大きさから推し量って、本物のワニをミニチュアで動かして大きく見せているところもあるのではないか。

警官役のロバート・フォスターが薄毛を再三サカナにされたり実際無精ヒゲを生やしていたりとかなりムサい。
マイケル・ガッツォやヘンリー・シルヴァなどかなり馴染みのある顔が並ぶ。




「きみの色」

2024年09月07日 | 映画
考えてみると主役三人は同じクラスというわけでもないし、進学コースも違い、性別も違い、恋人同士というわけでもない。生活空間が近いには違いないけれど、むしろ近しいがそれほど親しいわけではないデリケートな関係を大事にしているのだろう。

クライマックスというにはふわっとしたクライマックスでトツ子がキーボードを一本指で弾いている。きみみたいに本格的にギターが弾けて歌えるのともルイみたいにプログラミングで音を出せるのとも違うが全体とすると厚みのある音を出している。演奏の巧拙ではないのだね。
ルイがテルミンを演奏しているのが目を引く。あまり使う楽器ではないと思う。

人が色として見えるという設定をお話を転がすアイデアとしてではなく、画面そのものとして描いている。
輪郭を黒でなく色がついた線にするのはかなり前からやっているが(「火垂るの墓」で試みられたと記憶する)、設定と結びついたことで新しいフェーズになったと思う。

音楽を聴くのがラジカセだったりスマートフォンの中でルイだけガラケーだったりと、ちょっと昔の設定なのだろう。





「ACIDE アシッド」

2024年09月06日 | 映画
冒頭の労働者が激昂して警官に殴りかかって取り押さえられる映像がもっぱら監視カメラやスマートフォンの映像を通して描かれるのが、映像そのものが特定の立場に限定されているのを示す。

この騒擾事件で公務執行妨害を犯したのを受けて父親が片足首にGPSアンクレットをつけているのがけっこう描写としては珍しい。日本では限定的にしか使われていないらしい。

それもあって父と娘がぎくしゃくして距離が出来ていたのが、その距離がいろいろあって一応縮まるというのが全体のドラマの流れ。
途中寄る家で透析をしている息子と母がほとんど心中のような最期を遂げるのと、見終わると対になっている。

酸性雨というのは何しろ液体だからどんな具合にも変形するし、おそらく毒ガスも出すから始末が悪い。





「ソウルの春」

2024年09月05日 | 映画
猛烈に情報の密度が濃くて、日本語版にはハングルの字幕が出ないところにも所属部隊ほかの字幕がしばしば出るのが、本来ならジャマになりそうところがかなり理解を助けることになったし、実録ものという印象も強めた。
内容がどこまで史実に則っているのか、根拠は何なのか、どういう打ち合わせを映画公開の舞台裏で進めたのかは気になった。

2時間22分とかなり長いがテンポはものすごく速く、振り落とされてしまいそうなくらいだが、ラスト近くでチョン・ウソンの妻が出てくる以外は男ばかりの出演者ながら印象的な顔を適宜配してあって混乱しない。
「226」では女性の出番がムダに多くてげんなりしたのを対照的に思い出したりした。

大半の人間は強いものに従いたいのだといったファン・ジョンミンのセリフがあるが、ジョンミンの側についた者がそのゴ褒美としてラストで「出世」するのは今の日本の政争、ひいては政官財情学の構造にもそっくりそのまま当てはまる。
問題はその「強さ」がごく限られた範囲でそれ以外を排除した形で担保されていること。

全斗煥 (チョン・ドゥファン)をモデルにしたチョン・ドゥグァン(ファン・ジョンミン)とイ・テシン(チョン・ウソン)が悪と善、やってはならないことに手を染めるのとやるべきことをする代表で、その周辺は階級の上下に関わらずふらふら信念もなく日和見するか威張り散らすくらいしか能がない。辛うじてテシンの部下には軍人としての本分を全うするのはいるのだが、上の命令は絶対の軍隊で上層部自体が分裂しているのだから命令を全うしようがない。

盗聴している男がそれをあまり隠そうともしていないのが不気味。今でも中国では盗聴している男が堂々と割り込んできたりするらしい。





「ラストマイル」

2024年09月04日 | 映画
物流にどれだけたくさんの人が携わっているのか画で見せるのが強み。上は外資から下は非正規のドライバーのそれこそラストマイルまで互いに見知っていない相手を丸ごと大づかみに描く。

爆弾があといくつあるというカウントダウンを一回スカしておいて実はというのが凝っているのと微妙にまわりくどいのと両方の印象。

画そのもののスケール感はかなりあるのだけれど、ふたつのテレビシリーズのコラボらしく、どちらにも馴染みがないので、話がくっついて膨らむというわけにはいかない。

ロッカーの扉の裏に書かれた式がどういう意味なのか一回見ただけではよくわからなかった。





「ヒューマン・ボイス」

2024年09月03日 | 映画
ジャン・コクトーの一幕もの戯曲の原作「人間の声」は前にロベルト・ロッセリーニ監督、アンナ・マニャーニ主演でオムニバス「アモーレ」の一編として映画化されていた。
白黒で電話に向ってマニャーニが突撃ラッパの吹きっぱなしよろしく原作に忠実な一人芝居で喋りづめに喋り続けるというスタイルで、締めくくりにアモーレ、アモーレ、アモーレと絶叫する。巻きこまれてしまうというか圧倒されるというか、そういうリアルな感情移入を誘う作りだった。

こちらのティルダ・スウィントン主演、ペドロ・アルマドバル監督版はオープニングからして作りかけのセットという設定で、ラストの締めくくりもスタジオが出ていくという処理をしているという具合に異化効果狙いが強い。
毎度の原色の多用も作り物感強し。




「モンキーマン」

2024年09月02日 | 映画
監督主演、共同脚本製作のデヴ・パテルというと「スラムドッグ$ミリオネア」の印象が強く、あれはインド原産ではなくイギリスが混じっていてスラムドッグというにはスマート過ぎやしないかと思っていたら、今回は血と汗にまみれた荒々しい一作を放ってきた。

アンダーグラウンドの格闘技の賭け試合ではルール無用の本当のデスマッチが行われていて、負け役をしていたパテルが心機一転強くなって戻ってきたらそれを潰すために打撃も何もまるで効かない怪物的な大男が出てくるあたり、梶原一騎かと思うくらい。
金的打ちで決まるというのもまるっきり「プロレススーパースター列伝」ばり。

激しい暴力描写の一方で、マチズモにはまらず、女性はじめ性的マイノリティにシンパシーを持った描き方は今のものと思える。
仇役の政治家がニセのカリスマなのは世界的な現実を反映したものと言っていいだろう。