豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

“白昼の決闘”

2008年02月13日 | 映画
 
 入学試験の監督、採点は中休み。学年末試験の採点の一部はまだ残っているのだが、寒風のなか散歩に出かけて、また500円DVDの“白昼の決闘”を買ってきた。

 当初は、芦原センセイの教えに従って、時代順に“拳銃無宿”を買うつもりだった。しかし、キープ社版の“拳銃無宿”はなかった。キープ社のDVDには日本語だけでなく英語の字幕もついているので、できれば他社のものにはしたくない。
 時代順で行けば、次は“真昼の決闘”なのだが、これはすでに何度も見ているので、あえて今日見ようという気にならない。

 で、どうするか。
 芦原センセイの本を読んでいて、ぼくは開拓民とインディアンの関係が気になった。これまでの西部劇の記憶では、開拓民とインディアンは天敵のように争ってばかりいる印象だったのだが、芦原本を読むと、インディアンと白人との間には結構交流があり、インディアンの言語を習得して通訳になった白人や、結婚してインディアンの娘に子供を産ませる者もいた(逆はないだろう)。そういった子をスコウマン(squaw man)というらしい。

 言われてみれば、確かに、テレビの“ローン・レンジャー”でも、トントというインディアンがローン・レンジャーの斥候のような役をやっていた。

 で、気が変わって、インディアンとの交流モノということで、“白昼の決闘”か“折れた矢”かで迷ったのだが、結局“白昼の決闘”にした。

 「監督が三人も替わり、脚本家が四人もクビになった」ほど、セルズニクの情熱がこもった作品という水野晴郎の解説だったが、見始めた早々から退屈で、見つづけるのが苦痛になった。 
 
 最近、見る映画すべてが新鮮だったのだが、久しぶりに“ハズレ”だった。まず、ぼくはジェニファ・ジョーンズがあまり好きではない。そのメイクも、インディアンなのかメキシカンなのかも分からないような代物である。
 ジョセフ・コットンとグレゴリー・ペック兄弟の葛藤も、ステロタイプである。あの、“カインとアベル”物語そのままなのである。しかも、その兄弟間の葛藤も“エデンの東”などに比べて数段劣った描かれ方である。

 さらに、二人の男から愛された女が一人を選ぶのだが、その選択が正しかったかどうか生涯悩む、しかも選んだ瞬間から悩み始めるというのも、サマセット・モームの“Home”(日本語版でいえば『コスモポリタンⅠ』新潮文庫所収の「生家」)などと同じである。ちなみに新潮文庫の龍口直太郎解説によれば、モームの“Cosmopolitans”は1936年の刊行だから、“白昼の決闘”より10年早い。

 結局、兄のジョセフ・コットンが花嫁候補を連れて勘当された生家に戻ってくる手前で見るのをやめてしまった。もうどうなろうと、その先に興味はなくなってしまった。セルズニクは、“風と共に去りぬ”並みを当て込んで制作費に600万ドルをつぎ込んだというが、ペイしたのだろうか。

 ついでに、ジョセフ・コットンという役者も気の毒である。このDVDのケースの「白昼の決闘」の標題の上には、“グレゴリー・ペック ジェニファ・ジョーンズ”としか書かれていない。前に見た“第三の男”だって、どう見たって主人公はジョセフ・コットンだろうに、キープ社版のDVDのケースには“オーソン・ウェルズ主演”と麗々しく銘打たれていた。
 そういう位置づけの役者だったのだろう。

 唯一の収穫といえば、前に見た“西部の男”では、当時のテキサスには、いまだ合衆国政府の実効的支配は及んでいなかったが、今回は、鉄道建設に反対する牧場主の武装蜂起に対して、鉄道会社を守るために星条旗を掲げた騎兵隊が駆けつけるシーンがあった。
 キネマ旬報の『アメリカ映画作品全集』によれば、“白昼の決闘”の舞台は1880年のテキサスだという。“西部の男”もケースの解説によると、舞台は1880年代のテキサスだという。年代の問題ではなく、地域の問題なのだろうか。 

 * 写真は、キープ版“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画43 白昼の決闘”のケース。監督キング・ヴィダー、1946年。 
 原題は、今度こそは“Duel in the Sun”で、まさに「決闘」だが、sunは「白昼」でいいのか・・。
 音楽は、テキサスもので、これまた定番のディミトリ・ティオムキン。時おり流れる“夢見る頃を過ぎても”ばかりが印象に残り、あまりティオムキン「らしく」なかったけど。


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