チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

三週間ぶりの義母との面会

2023年09月02日 | 義母とのこと

曇り、25度、87%

 義母が入所する施設でコロナ患者が出たのはお盆でした。お盆に入る前に孫たちに合わせることができてよかったと思いました。コロナ患者が出ると、入所者は部屋から出ることができません。食事も自室で取ります。面会禁止の三週間の間、幾度か果物を差し入れましたが、広い食堂に人影はありませんでした。

 昨日が面会解禁日でした。桃と庭の花を持って心弾ませて施設に向かいました。食堂の義母の席に後ろ姿が見えていました。「なんだかいつもと違うなぁ?」と義母の顔を覗き込みました。いつもならパッと表情が戻るのに、虚な目をしています。私の胸に不安がよぎりました。義母の車椅子を押して部屋へと向かいました。エレベーターの中で「誰かわかる?」と尋ねたのですが返事がありません。部屋には先日送り届けた、オムツやパッドの箱が積まれています。段ボール箱の山積みは味気ない思いがします。まずは庭のルドベキアを花瓶に刺しました。桃を見せて「食べる?」と聞くとかすかに頷きます。小さく切って、私が義母の口に運びました。自室に連れて行くのは、果物を食べさせたり、主人とLINEで話すためです。LINEの画面に出て来た主人を見ても義母の表情は変わりません。ただ目に映っているだけ、主人が話しかけても返事もしません。以前なら私に何を言っているかという眼差しを向けたのですが、スマホの画面から目を逸らします。

 電話を切って、私一人でいろんなことを喋っていました。その時、「花。」と目がルドベキアに向いていました。庭に咲いている様子を話しました。桃は4分の1ほど食べました。「美味しい?」と聞いても返事はありませんでした。昨日は義母のお風呂の日です。わかっていたのですが、面会初日に会いたいとわがままを施設に言いました。お風呂のためにまた階下に連れていきました。「またすぐ来るからね。」

 保健師さんが私を見ると、嚥下障害が出て、幾度か吸引をしていると話します。食事をドロドロの状態にするかもしれないとの話でした。吸引が辛いだろうからお任せしますと、施設を後にしました。

 車に乗った途端、たった三週間でこんなにも変わるものかと気持ちが沈み込みました。私たちにとってはたった三週間ですが、刺激のない単調な生活の三週間は年老いた者たちにとっては長いのだと思います。言葉、表情、を戻すために足繁く義母を見舞うつもりです。

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義母の買い物

2023年06月24日 | 義母とのこと

曇、22度、89%

 お風呂掃除には液体洗剤を使わないのに手元に「マジックリン」の詰め替えが3つもあります。主人に家の家財道具の整理の終盤、封を切っていない洗剤のストックや調味料などでまだ使えそうなものは全て持ち帰りました。

 この3つの「マジックリン」家のあちこちから出て来ました。流しの下や洗濯機の横、使いかけの歯磨き粉などと一緒にありました。一つは真っさらなふきんの中に、もう一つは流し下の包丁の傍でした。義母が家を出て入院、その足で老人施設に入所して4年になります。4年前は「ヘルパー」さんに買い物、掃除をお願いしていました。「ヘルパー」さんに物が重複しないようにお願いしていたにも関わらず、こうして同じものがいくつも出て来ました。

 「義母の買い物」の癖です。この家の嫁になって46年、当初義母は50歳になったばかりでした。東京から戻ると一緒に買い物に行きます。スーパーで手当たり次第に商品をカゴに入れる義母を見てびっくりでしました。家に帰ると開けてもいないケチャップが三本あるのにまた買っています。買い置くつもりではないようです。つまり、「義母の買い物」の癖です。冷蔵庫を開けると生物が腐っていたことも度々でした。義父が逝って一人暮らしになっても、買い物の量は変わりませんでした。主人が幾度も無駄にしないように話していました。私も腐った食べ物を見ては溜息。

 家財道具の片付け中、いろんなものでこの「義母の買い物」の癖を見つけました。使いかけてはまた新しいものを次々に買う癖です。口紅、洗剤、調味料は蓋を開けたままのものまで出て来ました。50年近く変わらなかった「義母の癖」です。

 以前の私はうんざりしていました。ところがこうして「マジックリン」を三本並べて、今は大笑いです。「お母さんらしいなぁ。」

 先日、義母を街に連れ出す機会がありました。住み慣れた街を車で走っているのに「ここ何処ね?」会う度会う度、記憶の欠落が進んでいると感じます。折り詰めに入った「鰻」が膝の上に乗っています。「忘れずに今日中に食べるのよ。」ほんの5分もしにうちに「これ何?」と折り詰めを見ています。

 施設に戻ると丁度昼食の時間でした。テーブルに「鰻」の折詰をのせました。いつものように「また来るからね。」と義母を抱きしめます。「最後までそばにいるからね。」と呟くと「わかっとる。」

 「義母の買い物」の癖を思い出して涙する日がいつかやって来ます。46年、私も変わりました。

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銅のフライパンのこと 義母との話

2023年06月10日 | 義母とのこと

晴、21度、90%

 一昨日、料理研究家「桧山タミ台所展」へ行きました。たくさん並んだ銅鍋の中に義母から譲り受けた「銅のフライパン」と同じ物が展示されていました。桧山タミさんが考案して地元の金物屋が作っているものです。市販されているものの入手困難な品だとわかりました。「義母はどうやって、この銅のフライパンを手に入れたのかな?」

 昨日は1週間ぶりに義母を施設に尋ねました。もちろん、「銅のフライパン」のことを聞いてみるつもりでした。ひと月ほど前に手首をひどく打撲して、痛みから口もきけず、力なくなっていた義母ですが、持ち前の気丈さからすっかり元気になりました。目の輝きが元に戻りました。言葉がはっきりして来ました。そして笑うようになりました。

 昨日はお風呂の日、お風呂上げりの義母はやや高揚気味でした。ロビーから私が車椅子を押して3階の自室に連れて行きました。昨日の手土産は「バナナ」「お麦茶」「小さく切ったお羊羹」です。最近菓子類を欲しなくなっていますが、小さく切った羊羹を見ると手を出しました。「しめしめ。」お風呂上がりでお腹が空いたのでしょう、幾つも口に運びます。 「ねえ、お母さん、銅のフライパン、どこで買ったの?」「どう?」「銅のフライパン?」「なにそれ?」やっぱり思っていた通り忘れてしまっています。混乱させてはいけないので、話をやめました。

 昼食時間が迫っていたので長居できません。義母の羊羹を食べる様子に「ねえ、鰻食べたくない?」と尋ねました。義母の大好物です。昨年は「もう鰻はいらん。」と言っていましたが尋ねてみました。目がいたずらっぽく笑いました。「食べる!」やったと内心喜ぶ私。「今度来る時に2切れ、持って来るね。たくさんは食べれないもんね。」

 「銅のフライパン」が義母の手元にあった経緯はわかりませんでした。でも、元気にお羊羹を食べる義母、久しぶりに鰻を食べたいというう義母、よく笑うようになった義母、私も本当に嬉しい。

  桧山タミさん考案のこのフライパン、銅製ですから使うたびに変色します。使い終わるとまず、ゴシゴシ。「料理が冷めるなぁ。」ゴシゴシ。大事に使わないと、ゴシゴシ。私の台所に引っ越して来て、ふた月目です。鰻に喜ぶ義母を想像しながら、ゴシゴシ。

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義母、手首打撲

2023年05月24日 | 義母とのこと

晴、15度、87%

 昨朝9時を回ってすぐに義母の施設から電話がありました。一昨日、ベットの柵で手首を殴打したところが一晩で腫れて皮膚に変色が見られるので、病院へ連れていって欲しいとのことです。胸が塞がる思いで車を飛ばしました。

 指は動きますが、痛みが強いらしく顔をしかめて「痛い」と言葉にします。 この1月にも入院していた病院へ向かいました。緊急患者でもなく、予約も入れていないので待合室で2時間待ちました。高齢で疲れが出るので、早く診て欲しいと幾度も頼みましたが、「順番にお呼びします。」の一点張りでした。2日前の日曜日に私が面会に行った時には笑顔も見られました。話し言葉もしっかりしていました。たった1日置いただけなのに、義母はすっかり元気をなくしています。声は聞き取れないほどです。そして幾度も入院していたこの病院を「ここはどこ?」と聞きます。骨折はないだろうけどもし入院となったら、また認知症が進むのではと私は胸を痛めていました。

 レントゲンの結果骨折はなく、痛み止めで様子を見ることになりました。赤い腫れは湿布によるかぶれかもしれないと医師は言います。何れにせよ早く痛みが引いてくれることが肝心です。薬をもらい施設に戻るまで4時間、車椅子に座ったままでよく我慢してくれました。

 年若い者でも怪我や病気で気が落ち込むことがありますが、高齢になると明らかに反応や言葉数にその傾向が顕著です。何を聞いても答えは返って来ません。目はうつろです。施設に戻り、遅い昼食が出されました。「食べるかしら?」と心配でしたが、お腹が空いていたのでしょう完食しました。ちょっと安心。

 考えてみれば、手首を柵に打ち付けてと本人は言うのですが、誰もそれを見ていません。どうした状態でこんなになったのか?骨折はなかったものの心配は尽きません。1月の入院以後、急速に認知症が進みました。入院を避けられたことは幸いです。表情が乏しくなった義母を抱いて、「また来るからね。」と声をかけました。いつもと違い体にも張りがありません。「痛みがなくなれば、元気になるだろう。」と私自身に言い聞かせ帰途につきました。

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トルコのみかん

2023年04月23日 | 義母とのこと

晴、13度、56%

 義母が食べいというのものは、「バナナ」と「みかん」だけになりました。交互に手土産にしていましたが、このひと月、「みかん」は季節外れでありません。ポンカンやデコポンはありますが、皮をむく力もなく、義母が欲しいのは「みかん」です。そのみかんを見つけました!「トルコ産みかん」です。色、皮の感じは「ポンカン」に似てますが、匂いが「みかん」です。

 「トルコ産みかん」を届けました。朝食後自室にいた義母に「みかんよ!」義母は「季節外れ」がもうわかっていません。ちょっと目を細めて頷きました。「冷蔵庫に入れといて。」と言います。「みかんは冷蔵庫でなくていいのよ。」と言うと「看護士がバナナを全部食べてしまった。」と繰り返します。自分のバナナを職員の人が食べていると思っているようです。認知症の一つです。「そうなのね、じゃあ冷蔵庫の上に置いとくよ。」と言いながら冷蔵庫を開けました。

 皆さんも笑ってください。 何にもない空っぽの冷蔵庫に石鹸が一つ。私の大笑いにつられて義母も大笑い。「どうして冷蔵庫に石鹸を入れたの?」「看護士が取っていくから。」と言います。石鹸は残したまま、冷蔵庫のドアを閉めました。

 これも認知症の一つです。大したことではありません。看護士は冷蔵庫の横の洗面台で自分のものを洗って、石鹸を持っていくのだと話します。「そうか、困ったね。」と笑いながら聞くと義母も笑います。笑うことが楽しそうに笑います。

 小さな部屋の中に義母と私の笑い声。義母を横にして、「また来るね。」というと小さく手を振りながら笑っていた目から涙が溢れていました。「必ず来るよ、泣かないで。」

 見舞う度にいっぱい笑ってもらおう、声を上げて笑うと長生きしてくれるように思います。帰りの車で石鹸一つを思い出していました。私も大笑い。

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義母の握り鋏

2023年04月17日 | 義母とのこと

晴、11度、83%

 主人の実家の解体に伴う家財道具の片付けで、いくつかの品を持ち帰って来ました。食器数個、お鍋一つと数は少ないのですが、粗末にならないために私が使って行くことの出来るものだけを選びました。その一つが「握り鋏」です。昭和に流行ったカゴの裁縫箱にいくつかハサミがありましたが、小さな「握り鋏」を取り出しました。

 数日前、込み入った直し物を始めました。私の裁縫箱を開けると、昔からそこにあったかのように「握り鋏」が入っていました。糸を切る、細かい糸クズを取り出す、2時間ばかりの間「握り鋏」は仕事をこなしてくれました。糸を運ぶ間、義母のことを思います。そして改めて、義母のことを実はあまり知らなかったと気付きました。

 義母の小さい頃のことや娘時代の話が記憶にありません。よく話してくれたのは、結婚してからのことばかりでした。姑からされた数々の辛かったことを話してくれました。自分が辛かったから、自分の息子の嫁にはそんな思いをさせたくないと話してくれました。自分の息子の嫁、つまり私です。

 6人姉妹の真ん中、どんな子供だったのかしら?どんな娘時代だったのかしらと思い巡らしました。聞いても、もう「忘れてしまった。」としか返事が返って来ません。なぜもっと早くにそんな話を聞くことができなかったのかと悔やまれます。30年も日本にいませんでした。母や義父母がいるこの街には40数年いませんでした。そんな話をする時間はありませんでした。義母が使った「握り鋏」を手に幼児のようになった義母の目を思います。

 定期的に施設に出向きます。義母の部屋で小一時間、一緒に過ごします。手土産はバナナ数本です。以前のように鰻の重詰めや高価な和菓子ではありません。スーパーで買った普通のバナナです。「もう何も思い出せん。」が口癖になりました。義父のことは忘れています。テレビ電話に出た息子である主人も思い出すのに時間がかかります。私のことを忘れるのももう直ぐだと感じます。小さな部屋で言葉少なに過ごす時間が今一番私にとって大事なものです。疲れやすくなった義母をベットに横にして部屋を出ます。

 義母が使っていた大きなコップにコーヒーを注ぎました。どんな思いで生きて来たのか、もう聞くことはできませんが、義母の使った品の数々が私に教えてくれるような気がします。

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義母、骨のレントゲン写真

2023年04月07日 | 義母とのこと

雨、13度、94%

 骨折を用心しての入院を経て、退院後初の検査に行きました。施設の大きな車に車椅子ごと乗せてもらい連れて行きます。私の車で連れて行っていた頃に比べて楽になりました。義母も私も楽になりました。足腰の力が年齢とともになくなります。その義母を支える私も四苦八苦でした。

 予約していましたが、待合室で長く待たされました。おかげでたくさん話しができました。二人だけですから人には聞かれたくないことも話せます。義母には家の売却の話はしていません。悲しみます。希望の灯が消えてしまうように思います。

 義母の話、施設の入居者で嫌いな人がいたそうです。その人がいなくなって、清々したと言います。二人で大笑い。施設の職員さんはみんな優しいと言います。よかった、この施設で良かったと思います。

 診察前レントゲン撮影、それを済ませて先生と面談です。レントゲン写真を見た先生「もう大丈夫ですよ。」と義母に声をかけてくれました。数ヶ月後にまた検査に来る約束をして待合室に戻りました。

 最近思うことがあります。義母は人が話しかけてもその方を見ずに私を見ています。そして私が復唱するのを聞きます。そして私に答えます。香港にいる主人、仕事中の会社にいる息子ともLINEで話しましたが、初めは画面を見ているのに、受け答えは全て私の目を見ています。聞こえ辛いのかな?画面の向こうの人は身近に感じないせいかな?

 疲れが出ないうちに施設に連れて帰りました。「大丈夫」と言われても、骨折し易い状態なのは変わりません。一昨日の実家を閉める仕事から心身ともに疲れていた私は施設の玄関から帰りました。私にしては珍しく疲れが尾を引いています。帰りの車の中でふと思いました。帰国後この5年間、義母は幾度骨折したことでしょう。その診断のたびに、義母の横でレントゲン写真を見て来たのはこの私です。そう思うと、義母の面倒を見るように帰国したのだと、何かのお計らいを感じます。

 見出し写真は「真奈さんが来ましたよ。」と声をかける職員さんに振り返る義母です。年齢もわからなくなりました。主人と息子も区別がつきません。そんなこと構わない、家族みんな義母が長生きしてくれることを望んでいます。

 おかげさまで今朝起きると体の疲れが取れていると感じています。バナナを持って数日中に義母を訪ねましょう。

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「ピンクが似合うね。」と義母の言葉

2023年03月30日 | 義母とのこと

曇、11度、68%

 今回の主人の帰宅は正味三日間でした。生憎、連日雨が降りました。ココの散歩や外出時にピンクのウィンドブレーカーを着ました。「ピンク」を着た私を主人が見て「あれ?ピンク、珍しいね。似合ってるよ。」そうです、「ピンク」はもう数十年、着ていません。紺、白、黒以外ではたまに緑を着るぐらいです。主人の言葉に喜びました。

 義母の施設を訪れた時もこの「ピンク」を着ていました。大きなフードは傘なしでも雨を避けてくれます。義母の自室で3人になった時、私の動きを目で追っていた義母が「真奈さん、ピンク似合うね、ピンク着てるの見たことなかった。」とポツンと言いました。この少し前、実家から持って来た写真を見せていると、義父を指して「この人誰?」と主人に聞いていました。認知症が一歩進んだように感じました。その直後に私に「ピンク、着てるの見たことない」と言ったのです。「あれ?よく覚えていてくれてる。」と思い、義母の手を握って「嬉しいよ。」と言いました。記憶が行ったり来たりの義母の頭の中でピンクの私は初登場だったのです。

 帰りの車の中で、主人も私がピンクを着たことがなないことを義母が覚えていたことに驚いたと話します。直感で「似合うよ」ならまだしも、私が「ピンク」を着たことがないことを覚えていてくれました。

 「ピンク」を買うつもりだったのではありませんでした。いつもの紺や黒を求めるつもりが私のサイズが売り切れで、サイズ優先でこの「ピンク」を買いました。義母の目にも主人の目にも私の「ピンク」は驚きに映ったのでしょう。

 この歳になっても「似合うよ。」と言われると嬉しくなります。「お母さん、ありがとう。」

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義母の喜ぶ顔

2023年03月27日 | 義母とのこと

晴、10度、90%

 主人の今回の帰国は大事な要件を抱えていました。帰国後すぐに義母に会いに行く時間が取れず、昨日になりました。しかも予定の合間を縫っての面会でした。ひと月の骨折での入院中、私が経過報告をしていても心配していたことと思います。そして、義母も主人に会いたかったはずです。

 予約を入れずに訪ねました。急に息子の訪問を知らされた義母です。表情が乏しくなりましたが、笑う、喜びで泣くことははっきりとしています。時間がたくさん取れないのでドライバーの私も今回は主人と一緒に義母の部屋を訪れました。

 もう難しい話はわかりません。「何か食べたいものは?」「バナナとみかん。」そんな受け答えですが、主人が幾度も手を握り、子供を扱うように額に自分の額を重ねたり、義母は子供に返ったようにそれを嬉しく受け止めていました。実の親子の言葉がなくても通じる暖かなものが部屋を満たします。東京の息子、孫もテレビ電話で義母と話す時間を作ってくれました。

 義母に実家から写真をプリントされた古い皿を持って行きました。それを受け取った時の顔が見出し写真です。主人の一家4人、義父母、義姉、主人の古い旅行写真です。主人はまだ小学生でしょうか。喜びと驚きの義母の表情です。部屋に飾り置いて来ました。

 短い時間でした。帰りの車の中で主人、私は言葉もなく涙を流しました。いい時間でした。義母が家族を身近に感じてくれたと思います。主人も義母の元気さに安心してくれたと思います。所用も済み、今日また香港に戻ります。主人の胸中の想いを義母は受け止めてくれました。いい時間でした。

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退院1週間、義母に会いに行きました。

2023年03月18日 | 義母とのこと

雨、11度、90%

 今日からお彼岸に入ります。普段は2つの墓参りは同じ日に行くのですが、あいにく今日は別用が入っています。主人の家の墓は中心部から離れた山沿い、1日繰り上げてお墓参りに行きました。ちょうど義母が骨折入院から退院して1週間目、電話で職員の方に様子は聞いているものの、顔を見ようと墓参りの帰りに施設に行きました。

 面会は予約制です。予約していませんがきっと会わせてくれるだろうと、思っていました。コロナの3年間、この老人施設からもコロナ患者が出ました。防護服を着た職員の方達の張り詰めた表情を思い出します。届け物ですら消毒されました。異常に思えるほどの用心でした。昨日は義母に約束のミカンを持参しました。案の定、私の顔を見ると施設に入れてくださいました。もちろん検温、マスクは必須です。

 転倒監視のために昼間はずっとロビーにいると聞いていました。夜間はベットから数回落ちていたそうです。夜間の職員の人数はほんのわずかです。義母ばかり見ていることはできません。

 暖かな日差しのあるロビーのソファーに腰掛けている義母です。それを見た私はホッとしました。かがんで義母の手を取ると、驚いたように目が大きくなります。聞き取れないほどの声で「真奈さん」。ミカンを見せました。約束はすっかり忘れています。以前は鰻や和菓子を持って行きましたが、ミカン、バナナがいいと言います。食が細くなっています。もともと果物好きな義母です。LINEで主人と話をしました。スマホの画面を見ていますが、話す相手は私です。息子である主人を「歳とったね、おじいさんだわ。」と言って笑います。私は自分を指して「ほら、おばあさん」と言うと声を上げて笑いました。主人も私も歳をとりました。

 「また来るからね、今度はバナナ持って来るわよ。」別れ際座っている義母を抱きしめました。細くなった体は暖かく、「長生きしてね。」と言うと声を上げて泣きました。

 義父、私の父母に出来なかったことをこの義母にはできるだけしたいと思います。大したことではありません、ミカンにバナナです。会いに行くのも片道車で20分、いつも温かく私を迎えてくれた義母にできることといえばこれぐらい。帰り道、義母の体の温もりが私を包んでいました。

 街もこうした施設も少しですがコロナ前の状態に戻りつつあります。春めく明かりがこの3年間の重苦しさを跳ね除けてくれていると感じます。

 

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