気ままに

大船での気ままな生活日誌

瑞泉寺の秋景色

2010-10-26 21:12:27 | Weblog
横浜のそごう美術館で、手塚雄二画伯自身によるギャラーリートークが、まるで噺家のように面白かったことは、昨日述べた。そのときに、手塚さんが鎌倉市の二階堂で生まれたことを知った。それで、二階堂方面に散歩に出かけたというわけだ。二階堂といえば、手塚さんのお師匠さん、平山郁夫さんも、鎌倉宮から瑞泉寺に向かう通り沿いに住んでいた。

ここら辺りは、鎌倉時代に、奥州合戦で、亡くなった義経らの慰霊のために造られた、平泉の二階堂大長寺院を模した、永福寺という大寺院のあったところで、その後、焼失し、”二階堂”の地名だけが残っている。まだ空き地で、秋のすすきの見どころになっている。この近くに平山邸があり、シルクロードの文化遺跡の保存に力を尽くし、多くの絵画作品も残した根城である、”シルクロード研究所”の看板がかかっている。




瑞泉寺は、早春の梅と水仙で有名だが、今頃の秋明菊のうつくしさはあまり知られていない。今が真っ盛りだが、観光客は数えるほどしかいない。白、赤、ピンクと三種類揃って、あちこちに咲いている。




梅は古木ばかりで、枝にウメノキゴケがはびこっている。梅の花の季節には、白っぽくなって、あまり目立たないというか、うつくしさを感じないが、今の季節は、青々として、わが世の春を楽しんでいるようにみえる。ウメノキゴケの見頃だ。


そして、冬桜が咲き始めていた。水戸の黄門さま、お手植えの由緒ある桜である。


なんと、ツワブキも咲き始めていた。


手塚雄二画伯好みの、何気ない景色もあった。蜘蛛の巣にひっかった枯葉。横浜で展示されていた、絵にもそんなのがあった(右図)。


よくみれば はきだめ菊咲く 古寺かな (汗)


秋の瑞泉寺は、静まりかえっていた。こんな贅沢な散歩はないなと、ぼくは、ひとり、ほくそ笑んだのだ。

ふと振り向くと、山門前でインナー丸出しの女性が写真を撮っていた。ぼくは、また、ほくそ笑んだのだった。


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旧石器から縄文時代の鎌倉

2010-10-26 10:06:21 | Weblog

2週間ほど前の公開講座で、”先史時代の鎌倉”というテーマの講義があった。鎌倉にも2,3万年前の旧石器時代の遺物があったことを知り、おどろいた。うちからそう遠くないところの、常楽寺の裏山の粟船山、玉縄城跡、小袋谷切通しの関東ローム層から黒曜石の石器が見つかっているのだそうだ。

その後、氷河期が終わりに近づき、新石器時代、縄文時代に入る頃、海面が上昇し、今の鎌倉市の多くは海の底になっていて、八幡さまや荏柄天神社の下当たりまで湾が入りこんでいたそうだ。その頃の縄文遺跡(住居跡、土器や貝塚)は鎌倉市内でも、小規模ながら、20ほどの地域で発見されている。荏柄天神もそのひとつだそうだ。

そんなこともあって、昨日、荏柄天神に寄ってみた。鳥居あたりに地層の変化がみえると先生から聞いたような気がして、探してみたが、その辺は住宅があって、よくわからなかった。でも、神社は高台にあり、その台地の土が直接露出しているところがあり、この辺から土器が見つかったのかもしれないと、勝手に結論ずけて、石段を登った。


天神さまなので、受験期には賑わうが、今は閑散としていた。樹齢900年の大銀杏が、八幡さまの大銀杏なきあとは俺にまかせりとばかり、堂々と建っていた。ぎんなんも、たくさんつけていた。大きな、タレパイをいくつもつけていた(爆)。


普段あまり行かない、反対側の石段を上ると、大きな横穴があった。どなたかが祀られているのだろうが、縄文時代の横穴式住居のように思えた(笑)。


絵筆塚の前には、秋明菊が今が盛りと咲いていた。

そんなこと言うなら、縄文時代の生活に戻ってもいいのか、という言葉をよく聞く。ぼくは戻ってもいいと思っている。

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