気ままに

大船での気ままな生活日誌

花も実もある松嶺院

2010-10-27 22:03:52 | Weblog
今日は、お医者さんで、高血圧の薬をもらってから、ぶらり北鎌倉散歩。円覚寺松嶺院へ。秋の、花も実ある松嶺院でした。

まず実から。

ふうりんがまずみ (1センチ以下の実) ぼくと同じく、ぼけてます(涙)。

ろうあがき (2センチ程度の実) ぼくとおなじ、老あがきです(汗)。

やまぼうし(2センチ程度) 秋は帽子をかぶりません。すぐ失くすので(汗)。

しなの柿 (2センチ程度の小さな柿) 信濃にはまた行きたいです。

せんなり柿 (2センチ程度の小さな柿) ミニ柿の実です。

梅もどき (1センチ以下) どこが梅に似てるか?そうか梅干しか。

。。。。。

そして、花は。

ほととぎす

りんどう (小型の竜胆です)

ほしくさ (放射状の枝がかっこいいです)

雲南とりかぶと (毒入り餃子の仲間です)

みそはぎ (塩辛いものは控えるように先生から言われてます、でも味噌汁はやめられません)

だるまぎく (子供の頃、深大寺のだるま市、よく行きました)

何の花?名札がなかったのでわかりませんでした、深紅色のきれいな花でした。


そしてしんがりは、十月桜。でも、もうすぐ、十月も終わりますね。


出口近くの、花も実もある観音様。でも、拝んでも、ねずみ年生まれの方にしかご利益はありません。文化功労者の小百合ちゃんと同じ酉年のぼくには効果はありません。西行法師の和歌が身にしむ今日この頃です。


明日は12月並の陽気だそうです。風邪をひかないようにしてくださいね。
ではおやすみなさい。
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川端康成と三島由紀夫/伝統へ、世界へ

2010-10-27 11:23:59 | Weblog

鎌倉文学館、開館25周年記念特別展として表記の展覧会が開かれている。川端は生粋の鎌倉文人で、日本人初のノーベル文学賞受賞者、そして三島は、川端の推挙で世に出、名作”春の雪”で、侯爵邸として、この鎌倉文学館をモデルにしている。同館記念の展覧会としては、これ以上の企画はないだろう。加えて、庭園の秋薔薇は見頃になっている。

三部構成になっていて、第一部は”日本文学のノーベル賞”で、川端の同賞受賞関連の資料が展示されている。当時の毎日新聞の記事もあったが、その祝辞の解説記事は三島が書いている。当時、三島もノーベル賞の有力候補で、どちらかというところだったらしい。翌日、長谷の川端邸に、お祝いに駆けつけるが、車の中で、次のノーベル賞は10年はないな、と述べていたそうだから、半分残念な思いもあったのだろう。

ノーベル賞をすでにとっていた、湯川秀樹と朝永振一郎の、お祝いの言葉も新聞に載っていた。お二人の性格がよく出ているコメントで面白かった。湯川は、日本文学は紫式部以来、世界の先進国なのだから、受賞は遅いくらいだった、若いとき”雪国”を読んでから、ずっと愛読しているとも述べていた。朝永は、自分が受賞したとき風呂場で転んだので、転ばないようにと、語っていた(笑)。お二人の随筆は好きで、よく読んだものだ。今も本棚にある。

祝電がいくつもあった。その中に小百合ちゃんからのもあった。きっと、映画、”伊豆の踊子”に出演したからだろうと、推測した。ノーベル賞の実物のメタルもあった。はじめてみたが、金色に輝く”金メタル”だった。ぼくも持っている、受賞講演の”美しい日本の私”、そしてその生原稿もみることができる。

昭和43年10月18日毎日新聞  翌日、川端邸での川端と三島


ノーベル賞委員会が、とくにすぐれた作品としてあげた三つの小説


第二部は”鎌倉文庫からの出発”。戦後の有名な鎌倉文士による貸本屋さんから始まった鎌倉文庫は、出版社となり、文芸誌”人間”を発刊する。川端はここの重役、そして三島はここから”煙草”の掲載を認められ、ふたりの戦後の活躍が始まる。ここでは、互いに認め合った、両者間の書簡や、それぞれの名作の初版本や原稿が並ぶ。三島の”花ざかりの森”、”仮面の告白、”潮騒”等、川端の”雪国”、”名人”(川端はこの作品を自分では一番評価している)、”山の音”、”千羽鶴”等である。

”山の音”の舞台となった甘縄神明神社(ぼくの写真)。この下に川端邸がある。


第三部は”伝統へ、世界へ”。昭和31年頃、米国で潮騒がベストセラーとなり、雪国も翻訳され、二人の作品は各国で翻訳されるようになり、前述のように、二人とも、ノーベル賞候補となっていくのだ。川端の受賞後、三島は次第に民族主義的行動をとるようになり、楯の会に入り、昭和45年11月25日、豊穣の海、四部作の最終原稿を書き終えた、その日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で演説し、割腹自殺をはかる。

川端は”三島君の死から私は横光君が思い出されてならない。二人の天才作家の悲劇や思想が似ているとするのではない。横光君が私と同年の無二の師友であり、三島君が私とは年少の無二の師友だったからである・・・豊穣の海は源氏物語以来の日本小説の名作かと思った、三島君の死の行動については、今私はただ無言でいたい”と述べている。

そして、一年半後、川端も逗子の仕事場で自殺する。

翻訳本


   金閣寺           豊穣の海



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