原宿の太田記念美術館で忠臣蔵の浮世絵展を見終えて、さて、次は何処へ行こうかと原宿駅のホームで考えた。第一候補は、横浜に戻り、やはり討ち入りの日に、歴史博物館の忠臣蔵浮世絵展をみようかと思った。第二候補は、せっかくここまで来たんだから、わが故郷、三鷹でやっている”三鷹ゆかりの文学者たち”展にしようかと思った。どちらにするか迷った。そうだ、山手線のどちらか早く来た方にしようと、考えた。人生はギャンブルだ。で、ほとんど同時だったけど、わずかに新宿回りが早く止まったのだ。
駅前の三鷹市美術ギャラリーで、市制施行六十周年記念展として「三鷹ゆかりの文学者たち」が開催されていた。三鷹市も、還暦になったのだ。ぼくが、ものごころついてからは、ずっと市だったから、三鷹町、三鷹村なんて時代があったなんて考えてもみなかった。明治22年に神奈川県北多摩郡三鷹村が誕生して、4年後に東京符に編入されたとのことだ。
展示室に入ると、まず、だれでも知っている、三鷹村、三鷹町民が待っている。三木露風、山本有三、武者小路実篤、太宰治の四横綱だ。ぼくにとっては、実篤と山本有三が思い出に残る小説家だ。実篤の”馬鹿一”の初版本はじめいくつかの馴染みの本が展示されていた。山本有三は路傍の石くらいしか覚えがないが、井の頭公園に向かう道なりに、ぼくの子供の頃からあった山本有三記念館(むかしは図書館といっていたような気がする)に、自転車でよく行ったものだ(結構、本好きだったのだ、えへん)。ついでに公園も(結構遊び好きだったのだ、えへん)。井の頭公園は最寄駅は吉祥寺だから武蔵野市と思っている人が多いが、大部分は、わが三鷹のものです。えへん。
そして、辻井喬。四歳から十一歳までの少年期を三鷹で過ごした。自伝的小説”暗夜遍歴”などに、この時代の記憶が書かれているという。”週に一度、父が旧市内の家からやってくる日を除けば、三鷹での生活は、母と妹の三人だけの、鳥や虫や植物たちの営みに囲まれた、閉ざされた世界だった”(彷徨の季節の中で)。
瀬戸内寂聴も離婚後、京都を離れ、小説家を目指して、上京し、はじめての下宿が三鷹だった。東女の同級生がみつけてくれたそうだ。ぼくは、この展覧会場がわからず、連雀通りの方まで行ってしまったが、どうもその辺りに住んでいたようだ。当時の、木々の生い茂る道の写真が出ていた。当時はりんご箱を机にして少女小説を書いたそうだ。津村節子もそうだった。
吉村昭は大学の文芸部で津村節子と知り合い、結婚する。おしどり夫婦で知られる。吉村は何度も芥川賞候補になったが落選ばかり、奥さんは一発で、先に芥川賞をとってしまったそうだ。夫は内心、どんな気持ちだっただろうか。 吉村昭は太宰治賞をとっているので三鷹に引っ越したのだろうか(笑)。昭和44年に移ってきたとのことで、ぼくはもう川崎市民になっている(関係ないけど)。
詩人、大岡信も三鷹の上連雀に住んでいた。”折々のうた”は、よくぼくも図書館でみる。息子さんの大岡玲も小説家として活躍されている。芥川賞、三島賞もとっている。上連雀はぼくの通った小、中学校の校区だから、もしかしたら同窓かもしれない。
ぼくの少年時代の遊び場に、国際基督教大学ができて、大学のゴルフ場(現在は野川公園になっている)までできて、遊び場はつぶされ、当時のぼくらはうらんでいたんだけれど、そこの卒業生、高村薫と平田オリザも、三鷹ゆかりということで、紹介されていた。
引っ越し魔の村上春樹も、三鷹に住んだことがある、”村上朝日堂”に三鷹時代のことが書いてあると、紹介されていたので、家に帰って読んでみた。”自分は日記をつけない人なんだけど、どういうわけだか、三鷹時代だけはつけている”、とある。”1971年のことだけど、夕刊は15円で、平凡パンチは80円、ハイライト80円だった。一月三日に、三鷹大映(ぼくもよく行った、封切り館でないので、当時は東映の時代劇なんかもやっていた)で山下耕作の”昇り龍”(良い映画である)と渥美マリの”いいものあげる”(良いタイトルである)の二本立てを観ている。五日には新宿の京王名画座で”イージーライダー”を観ている。イージーライダーを観たのはそれで三回目だった” ぼくは、村上春樹の本は、小説よりエッセイの方が好きである。
三鷹のことを書くときりがないんだけど、当用漢字に”鷹”の字を入れないのは、元三鷹市民としては、けしからんと思う。鷹を入れないなら、鷲もいれないでほしい。鶏(酉)は是非残してください。ぼくの干支ですから。虎や兎はどうでもいいです。