東慶寺には、何度訪ねたかわからない。でも行くたんびに新しい発見がある。もちろん、日々、花も木も草も変わっていくわけだから、当然のことともいえる。でも、境内にある、著名人のお墓については、もうこれ以上、新たなものはみつからないだろうと思っていた。それが、この日、ふたつも見つけてしまったのだ。
(昨日)午後から、晴れ上がってきたので、東慶寺に散歩に出かけた。梅がだいぶ咲きそろってきただろうと思ったからだ。思った通りであった。山門を入ると、梅の並木の多くが花を開き、それらがきらきらと輝いてみえる。ちょうどこの時間帯は、太陽が”向こう正面”にあり、逆光となるが、裸眼には、とてもうつくしくみえる(逆にカメラではよく撮れないが)。山門近くの鐘楼前の梅もだいぶ咲いてきた。梅並木の途中の、黒塀前のマンサクも、黄色の細い花弁をいっぱいに拡げている。
いつものように、何名かの文化人のお墓参りをした。そのとき、突如、”老いらくの恋の川田さんのお墓だよ”という声が、”老いらくのグループ”(爆)の中から聞こえてきた。好奇心の強い(汗)老いらくのぼくは、ほかのお墓を参るふりをして、そちらに近づき、彼らが去ったあと、そのお墓の前まできた。墓石に川田順と刻まれている。”老いらくの恋”の言葉の源泉は、この方が詠われた歌にある。歌人で、自分が68歳のとき、40歳の大学教授夫人と恋に落ち、京都の真如堂(紅葉がきれいです)で自殺をしようとした。結局、生きて、恋を全うし、結婚することになるのだが、川田さんは”死なむと念ひ生きむと願ふ苦しみの百日つづきて夏去りにけり”と詠い、”墓場に近き老いらくの恋は怖るる何もなし”と添えた。その、”老いらくの恋”が流行語大賞(今ならね)になったというわけだ。
そして、ぼくは、ついでながら、普段立ち入らない、その辺りのお墓を探索してみたら、新たな著名人のお墓を見つけたのだ。安宅英一のだ。2007年、三井記念美術館で開催された”安宅英一の眼、安宅コレクション”を観に行ったことがある。安宅コレクションは、安宅産業破綻後、大阪市立東洋陶磁美術館に移っているが、ここも去年、訪ねている(今年も3月行くつもりです。大相撲春場所に合わせていたのに、中止になり悔しい)。ぼくには、お馴染みの方なのだ。安宅産業の創業者、安宅弥吉のお墓は、彼が財政的援助をした、鈴木大拙と並んである。その息子が英一なのだ。そこからは大分離れた場所にあるので、今まで気付かなかったのだ。ついでながら、出光美術館の関係者、出光佐三(安宅のあと大拙の援助をした)の墓は大拙と弥吉の墓に隣りあっている。
犬も歩けば棒に当たる。この日もふたつの発見をした。だから、散歩は楽しいのだ。ぼくも”老いらくの恋”の歳に近づいてきたが、たとえ、美貌のアラフォーを追いかけても、”かけこみ寺”の東慶寺にかけこまれてしまうのがオチだろうから、やめておく(爆)。