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気ままに

大船での気ままな生活日誌

熱海梅園と熱海桜

2011-02-13 22:53:07 | Weblog

先日、静岡に行ったばかりなのに、また今日、静岡に行ってしまった。ただ、今回は、静岡といっても、神奈川県境の熱海。熱海といえば?・・・そうです、今の時期なら、梅園、そして、本州では一番早く咲く、熱海桜。今日は、昨日とはうってかわって、とってもいい天気だったもんだから、ふたりで出掛けたというわけです(汗)。何故、かというと、よく学び遊びよく遊ぶ、だからです。

東海道線からみえた富士山のうつくしかったこと。前日の冠雪で輝いていた。一時間ほどで熱海駅に。まだ10時。早くも満員のバスで熱海梅園へ。大勢の人々で溢れていた。肝心の梅は、どうか。早咲きが満開、中くらい咲きが五分、遅咲きは一、二分といったところで、まずまずの見頃。今日、来て正解だった。雲ひとつない青空(二、三の雲はあったけど、目をつぶって、相撲の八百長、大目にみてください、もし五月場所まで中止したら、フェイスを使って100万人デモを起こします;爆)。青空に映える、紅梅、白梅。もう、何度も行っているから、花だけさらっとみて、ゴンドラの唄、あの町この町、の作曲者、中山晋平の旧居(記念館)も沢田政廣記念美術館も入らず、韓国庭園はこの前、ヨン様料理店に行ったよしみに(?)、ちょとだけ覗き、足湯の娘さんの大根足だけはしばらく観察した(笑)。

そして、はやばやと帰りのバスに。市役所前で降りて、そこの”一本桜”の熱海桜をまず見物。満開だった。そして、少し歩いて、糸川沿いの”桜並木”の熱海桜。見事な咲きっぷりだった。イトカワといえば、あの小惑星、ということはイトカワを囲む熱海桜は、あの感動を呼んだはやぶさ号だ。標準木が糸川橋の端にあった。それが満開だったから、熱海桜は満開といっていいです。早くも散り始めの桜もあったくらいだった。まさに絶妙のタイミングでお花見できた。熱海桜も、はやぶさ号のように、たくさんの人に感動を呼んでくれた。今年も本当にありがとう。

そして、午後は、観桜、観梅のあとの定番のコース、MOA美術館へ。これがまた、最高。それについては、のちほど。こっそり、一部、教えます。又兵衛さんの山中常盤物語絵巻が観られましたよ。

熱海梅園

 

熱海桜

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芹沢介の屏風

2011-02-13 07:42:05 | Weblog

静岡市立芹沢介美術館で”ひろがる色と模様/芹沢介の屏風”展が開催されている。登呂遺跡公園に隣接するこの美術館を訪ねたのは、何十年振りだろう、懐かしく思った。芹沢介の型染を嫌いな人は、まずいないだろうと思う程、素直にうつくしいと思う。”いろはにほへと”とか”春夏秋冬”の文字をモチーフにした、色とりどりの文様は、いつまでも心に残っている。常磐沿線に住んでいた頃に、柏の”芹沢介作品(個人蔵)の美術館”に二度ほど訪ねたことがある。

今回は、芹沢介の屏風作品が15点も展示されていて、とても楽しい展覧会になっている。初期の作品”伊曾保物語屏風”では、イソップ物語をモチーフに、一図に一物語が文様化されている。あっ、あれはうさぎとかめの競争だ、とかカラスが壺のわずかな水を飲むため石をいれて水面をあげている場面とか、がちょうと黄金の卵、とか、言いながら観ているのは楽しい。大部分は忘れてしまっている。これをきっかけに、子供時代に読んだイソップ物語を覗いてみたいと思った(笑)。

同様に”四季文尽くし四角屏風”もそれぞれの季節の風物詩が文様化され、あれ、これは何だろうと、(楽しく)考え込んでしまう。”丸紋いろは六角屏風”は、いろはにほへと・・順に、なら”糸巻き”、は蝋燭、は刷毛、は人形というふうに、手仕事が文様化されている。これも同様に、謎解きの楽しみがある。一方、”いろは文二曲屏風”では、単純に、いろはにほへと・・・・・と独特の芹澤文字が六色の”江戸の色”を背景に描かれている。

もちろん、屏風だけではなく、のれん、夜具地、帯地もたくさん展示され、布は木綿、絹、麻と多彩だ。沖縄の紅型をはじめてみて感動し、それを基にした、芹澤芸術があるわけだが、明るくて、たのしくて、うつくしい、文様のかずかずは、観ていてあきない。ひとつ驚いた作品があった。あれ、棟方志功の十代弟子かな、と思ったら、芹澤作品だった。布ではなく和紙に墨一色の型染めで染めたもので、ある宗教団体に依頼されたものらしい。

履歴をみたら、鎌倉にも在住したことがあったらしい。同じ、柳宗悦の民藝運動の仲間、志功も鎌倉山にアトリエをもっていた(現在は美術館になっている)。由比ヶ浜の海からイメージした作品もある(鯛の文様)。静岡市の生まれだが、仕事場と住居は東京、蒲田にあった。宗悦同様、民家を移築し、住宅にしたとのことだ。その蒲田の住宅が移築され、美術館の近くに移築され、土休日に見学することができる。ぼくらも運良く、みさせてもらった。家には、志功の書(”愛染”の文字)や河井寛次郎作の茶碗なども飾ったり、使用していたらしく、その展示もあった。

85歳でなくなるまで筆を離さなかった。絶筆は”富士”。ふたりの人物が富士山を登るところを描いた小品だった。子供の描いたような絵で、描いている姿を思い浮かべたら、涙が溢れそうになった。

登呂遺跡のことは、また別の機会に書こうと思う。

芹沢介の家

 

 

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