気ままに

大船での気ままな生活日誌

あかあかと日はつれなくも秋の風 金沢にて

2012-09-03 10:24:27 | Weblog
あかあかと日はつれなくも秋の風 (芭蕉)

もう、秋だというのに、あかあかと照り付ける太陽、いいかげんにしてよ、とイカル奥さんでも、あらまあ、ときどき、秋の涼しい風も混じってるじゃん、ちょっとうれしい花一匁、という、今頃の季節の句だ。

金沢旅行の最終日の早朝、ぼくは、ねぼすけのワイフをおいてホテルを出た。前日まで歩き残していた浅野川沿いの町、とくに尾張町付近をうろつこうと思っていた。泉鏡花もこの辺りに住んでいて、泉鏡花記念館もある。その近くの神社の脇に、小さな立札をみつけた。

”芭蕉ゆかりの地/立花北枝宅跡”とある。説明文に、北枝は居を転々としたが、旧下新町(現尾張町)でも源○庵を構えていた時代がある、芭蕉はここを訪れ”あかあかと”の句もここで初めて披露したという説が有力だと、ある。

ほほお、そうだったんだ。ぼくは鎌倉女子大公開講座で”奥のほそみち”を受講していたから、ピンときた。”あかあかと”は”奥のほそみち”の句だ、間違いないぜよ。帰ってから調べてみたら、やっぱり間違いなかった。なななんと、芭蕉は陽暦でいうと、8月29日に金沢に到着、それから10日間、滞在ということだった。まさに、ぼくらの訪問時期と重なっている。えへん、えへん。

さて、本文には立花北枝の名は出てこない。”ある草庵(注)にいざなはれて 秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄”とあり、注として、金沢の俳人、斉藤一泉の松玄庵とある。そのあとに、途中吟(金沢の途中で詠んだ)として、”あかあかと・・・”の句が載っているのだ。

ありゃま、立花北枝の名はないじゃん。そうだ、曽良の旅日記をみてみようと、その岩波文庫の後半部を探すと、あった!”二十日(旧暦)快晴。庵にて一泉饗。高徹(医師)に逢、薬を乞う(曽良は病気になっている)。翁ハ北枝・一水同道ニテ寺に遊”。さらに、注に本文64ページを見よ、とある。丸岡天竜寺の項で、”金沢の北枝というもの。かりそめに見送りて此所までしたひ来る。”と、ここではじめて本文に北枝の名が現れる。

そこの注で、”立花氏、刀鍛冶。蕉門十哲のひとり。享保3年没”の説明が。ようやく納得!合点!

芭蕉ゆかりの地/立花北枝宅跡

その立札の場所 なんとか神社の傍


この近くの鏡花記念館


すぐそばを浅野川が流れている。手前の道が鏡花の道、向こう側が(徳田)秋声の道と呼ばれている。鏡花の道には、幼き頃のことを綴った”化鳥”の碑と、その橋銭をとって暮らしたという橋が再現されている。






川沿いは粋な(主計町)茶屋街である。現在も一流料亭街になっている。ひがし茶屋街も橋向こうに。別途、紹介の予定。


東慶寺にお墓がある、鈴木大拙も西田幾多郎も金沢ゆかりの文化人である。旧制四高(しこう、と読む)の招致には前田家が尽力し、建設資金の12万円のうち、8万円を拠出したとのこと。加賀のお殿様はえらかった。文化軽視気味の最近の知事さんや市長さんも見習ってほしいぜよ。鈴木大拙館があり、西田幾多郎は石川四高記念館内に紹介がある。あ、そうそう、室生犀星館を忘れてた。

旧制四高(石川四高記念館)。前述の文化人関係の展示物もいっぱいでした。


あっ、や野獣の目!!彼女も金沢出身だったっけ。金メタル、おめでとう。金沢市役所。金箔のまちには金メタルがよく似合う。


さすが、金沢は文化とスポーツの町でごわした。
コメント
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