気ままに

大船での気ままな生活日誌

3月3日 東慶寺の春

2014-03-03 22:29:31 | Weblog

3月1日のお寺の春シリーズに引き続き、桃の節句、3月3日も、お寺の春シリーズといきましょう。まずは、東慶寺。いよいよ梅が見頃になりました。ぼくは南から日が射してくる午後のはじめ頃の東慶寺の梅が大好き。だから、今日も、その時間に合わせて出かけた。

山門をくぐると輝くばかりの梅並木が。

鐘楼前の梅も満開

鐘楼に上がって、書院方面をみる

本堂庭園内からみる

お茶会を終えたご婦人方、梅をみながら

黒塀と紅梅

黒塀とまんさく

黒塀と木瓜

素晴らしい東慶寺の春だったが、ただ、ひとつ気になることが。美乳岩の形(上部)がくずれたのではないかという心配。

以前の美乳岩。上部が緑で隠されていただけなのか、もう少し様子をみてから判断したい。

次回は浄智寺の春です。3月3日中にアップするのが難しくなってきた。では、おやすみなさい。

 



 

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清麿/幕末の志士を魅了した名工

2014-03-03 10:20:27 | Weblog

先月の人間国宝展にも刀剣のコーナーがあり、相州正宗作の国宝の日本刀と並び、人間国宝作の刀が六振りほど展示されていた。根津美術館で開催されている”清麿展”では源清麿(1813-55)作のものばかりが約50振りも並んでいるのだから壮観だった。

和気清麻呂なら知っているけど、源清麿なんて知らないという人が多いと思うが、ぼくもその一人だった。とにかく、幕末の、とっびきり優秀な刀工だったらしい。鎌倉時代の天才、正宗にあやかって、(四谷に住んでたので)”四谷正宗”と呼ばれたという。ついでながら、鎌倉の正宗のお墓は、正月えびすで有名な本覚寺にあります。そしてその二十四代目の子孫の方が鎌倉駅西口の方で刃物のお店を出しています。

清麿は信州は小諸の生まれで、十代から兄とともに上田藩の河村寿隆に刀工の技を学ぶ。20歳前後に江戸に出てきて、窪田清音の後見のもとで、さらに腕を磨く。作品は、ほぼ時系列で展示されているので、はじめに、清麿18歳のとき兄弟共同制作の脇指をみることになる。文政12年4月の銘が入っている、そして4か月後の作、清麿18歳、単独の作の刀が。波のような刀文が印象的なうつくしい刀剣だ。この小波のような刀文はのちに華麗な刀文に変貌していく。これが単独の処女作。そして、21歳の脇指。ここには薫陶を受けた窪田清音の名も刻されている。

清麿30歳のときに、萩藩に招かれ、2年間過ごす。この間、清麿は萩藩の天保改革を主導した村田清風や萩藩の絵師をつとめた羽様西涯(はざませいがい)らの萩藩士たちと親しく交流した、と萩博物館に巡回したときの案内に書かれている。一方、ウィキペディアによると、江戸で清音の尽力により一人三両掛け百振りの刀剣講「武器講一百之一」を依頼されるが一振り目を完成させたところで出奔し、 その年の暮れに長州藩に現れ2年間をすごした後、江戸に戻り清音に罪を詫びたと言われていた、とある。

ついでながら、”利休にたずねよ”の作者、(最近お亡くなりになられた)山本兼一が、”おれは清麿”(2012年)”を著わしているので、それを読めば、その詳細がわかるだろう。今、司馬遼太郎の播磨灘物語を読んでいるところなので、次はこの本。さらに、ついでながら、播磨灘では、黒田官兵衛が、謀反を起こした摂津の荒木村重の牢に入れられ、衰弱しているところ。大河ドラマの進行より、少し先。

そして、江戸に戻り、清麿全盛期。”幕末の志士を魅了した名刀”が続々、ゾクゾク。龍馬とか高杉晋作とか有名志士が使った刀が出てくるかと思ったが、そういうことではなかった。さて、名品のいくつかがちらしに載っているので、それらを示しながら紹介しよう。

重要美術品 長野県宝 太刀 (銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製/弘化丙午年八月日) 2尺6寸の豪刀。恩人の清音に贈与したもの。刀文の華やかなこと!
清麿が「正行」から改名し、初めて「清麿」と銘を刻んだ太刀で南北朝時代の太刀を彷彿とさせる作品とのこと。

刀 号 一期一腰(いちごひとこし)の大 (銘 源清麿/嘉永元年八月日)
脇指 号 一期一腰(いちごひとこし)の小 (銘 源清麿/嘉永元年八月日日本・江戸時代 嘉永元年(1848))
清麿の大小で、名刀として名高い。大切先(おおきっさき)とよばれる、長い切先が印象的である。そのうえ複雑で華やかな刃文は、清麿の作刀の到達点ともいえる出来ばえである。嘉永(かえい)元年の銘をもつ作品は稀少である、とのこと。

そして、何と42歳の絶頂期で自死してしまう。その、遺作が51番目に。嘉永七年正月日/源清麿 (切付銘)切手山田源蔵/安政三年十月廿三日於千住太々土壇拂
うつくしい刃文が涙にみえた。

清麿フアンになった。そして刀剣の美にも。

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コスモグラフィア 

2014-03-03 08:12:04 | Weblog

春雨じゃ濡れて行こうと、傘も差さずに歩けたくらいの霧雨の一日だった。晴れていれば、東御苑の梅見を兼ねた美術館巡りを考えていたが梅見は削除のミュージアム巡りとなった。

丸の内のJTビルのKITTEの一画に東大総合博物館の分館のようなミュージアムがある。JTと共同出資の丸の内出店という感じ。はじめて入ってみた。動物の剥製やら骨格、化石などの通常展示のほか特集展示がいくつかあった。その中のひとつ” コスモグラフィア(宇宙誌)”に興味をもった。

そのコーナーには火星探査機などにより送られてきた火星地表面の画像が展覧会のように展示されている。僕が最初に視線がいった画像なんか、まるで西美にあるミロの作品にぴったり。あの輪の中を赤く塗れば、芸術作品じゃない、と思った。そういう抽象画風画像がいっぱい。

そして、この”コスモグラフィア”の館長さんの紹介文が面白い。ちょっと堅苦しい言い回しだが、そのまま載せてみる。

最先端の惑星科学がもたらした天体画像と抽象絵画、両者の「近親と相関」をあらためて問い正したくなる所以である。モノのありよう、世界のありよう、あるいはこう言って良ければ宇宙のありようを眺める方法は、科学的なそれに限らない。歴史や文学や芸術など、さまざまな眼で天体の素顔を直視したらどうか。宇宙のはるか彼方から送り届けられた画像のなかに、20世紀の抽象絵画と通底するイメージが溢れているのである。この後者が、人類のみに許された創造的な営みの所産であると考えたとき、両者の符合はまことに不可思議なものとしか言いようがない。宇宙創生ダイナミズムの痕跡をとどめた惑星の写真を眺めながら、20世紀絵画のヴィジョンに思いを馳せる。そうした自由さを味わってみたらどうか。

抽象画っぽい火星地表面の写真をお見せしたいが、ここでは撮らせてもらえないし、カタログにもない。仕方がないので、ジョアン・ミロの作品を載せますので、逆に想像してみてください(笑)。


そのあと、波山展に行ってきましたが、ここでは、天体をモチーフにした、うつくしい花瓶や茶碗がいくつもありましたよ。

藝術の眼、科学の眼、哲学の眼、詩人の眼、などなど、いろんな眼をもたないと、この世界は理解できんのかもしれにゃいにゃー。猫の眼も必要です。

ミュージアム入口

信州松本のお蕎麦屋さんを描いた伝統友禅染

そこの丸の内出店で、なめこ蕎麦を食した。なめこがおいしかった。

そして、三菱で唯美しく展。おらあ、世界が分からくっても、おしいもの食べて、おいしいお酒を飲んで、うつくしいもの観てりゃ、それで十分じゃ。

 

 

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