気ままに

大船での気ままな生活日誌

東海道宿場町 由井を歩く

2011-02-15 10:44:04 | Weblog

ぼくは、旧東海道の全宿場町を歩き切ることを生涯の目標にしている(汗)。すでに、日本橋から箱根までの11の宿場町を制覇していて、そのたびにブログにも記録している。東京、神奈川は、まあ気が向いたときに日帰り出来るから、問題なく達成されたわけだが、静岡県から先は、そうはいかない。それが、先日の静岡小旅行で、はからずも、記念すべき静岡県内・宿場町制覇の第一歩を印すことになったのだ。先日のブログで紹介したように、川瀬巴水展を開催していた静岡市東海道広重美術館が、たまたま、宿場町、由井にあったのだ。

由井駅を降りると、目の前を東海道がはしっている。西方面には、いかにも、江戸時代では難所だった思われる山がみえる。あとで知ることになるのだが、それが広重も描いた”由井薩埵嶺”(ゆい さったとうげ)だ。宿場町は、こっちだよ、と桜海老が呼んでいる。”由井桜えび通り”の大きなアーチ状の看板。東海道の道幅も当時と変わらないように感じだ。

少し歩くと、何故、”桜えび通り”なのかが分かる。桜海老は駿河湾しか採れず、とくに由井漁港がその中心だそうだ。4月~6月が漁期だそうで、その頃、訪ねると、(ポスターをみると)桜色の海老を干している風景がみられようだ。もちろん、新鮮な生桜海老や干し海老も食べられる。

 

途中、せがい造り(深い軒先をつくるため主屋の柱から腕木を突き出して桁をのせ、この部分に天井を張る構法)と下り懸魚(げぎょ/桁の端を隠すためにとりつける)の家があった。さすが、宿場町だ。

宿場町というと、本陣、脇本陣そして旅籠や茶屋。由比宿は本陣1軒、脇本陣1軒(2軒あるところが多い)、旅籠32軒と比較的小さな宿場だったようだ。ここでは、本陣あとが復元され、公園になっている。離れ座敷”御幸亭”も当時の姿に再現されている。その敷地内に前述の広重美術館がある。そして、この本陣前に由井正雪の生家があり、現在も染物屋さんとして営業しており、”正雪紺屋”の看板を掲げている。

左から、本陣、御幸亭、脇本陣(うんどん屋;うどん屋ではありません)、由井正雪の生家 

 

ただの亀ではありません。ここは、宿場の馬の水飲み場だったのです。

 ”由井 薩埵嶺”(ゆい さったとうげ)”

広重の絵(山の向こうから描いている。富士山もみえます)

”宿場町歩き”静岡県版第一報の巻でした。隣りの蒲原まで、3キロほどでしたので、本当は、その日にふたつは行きたかったのですが、足手まといがひとりいましたので(爆)次回に回しました。また、宿泊した静岡も”府中”という名の宿場町ですが、時間の関係で、これも、次の機会に残しておきました。ああ、また楽しみが増えてしまった、時間が足りない、どうしよう。

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雪景色 ふたたび

2011-02-15 09:12:33 | Weblog

大船、ふたたびの雪景色。
朝散歩で、ご近所の雪景色を撮ってみた。

うち(マンション)からの雪景色 (拡大可能です)

雪だるま

花と雪

雪と松竹梅

大長寺の雪景色

 

 

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棟方志功 祈りと旅

2011-02-14 12:04:23 | Weblog

棟方志功といえば、”わだばゴッホになる”。ぼくはこの言葉は、人物評論の達人、草柳大蔵がはやらせたものとばかり、今ままで思っていた。勘違いだった。久しぶりに”新々実力者の条件”の棟方志功のページをめくってみた。タイトルは、”わだばゴッホになる”ではなく、”画壇の化け物、棟方志功”だった。それに、ゴッホについてはあまり触れられていない。

志功に師匠の名を上げてもらうと、”梅原龍三郎、河井寛次郎、川上澄生、それから赤ん坊もカエルもナマズもみな先生です”と答えている。そして、絵描きになるまでに、三つのオドロキを経験する、一つ目、二つ目は無名の(ぼくには)画家の絵をみたり、描いているところ、そして、三つ目にやっとゴッホが出てくる。青森中学の先生からゴッホの”ひまわり”の原色版をもらったことだ。”目玉がブッとんじゃった。ひまわりだ、ゴッホだ。それにロートレック、ベートーベン、あとにはなんにもないよ、僕には”と草柳に話している。

さて、その棟方志功の展覧会が、静岡市立美術館開館記念展シリーズの第三弾として開催されている。志功の作品はいろいろなところで見て来たが(もちろん、地元の、鎌倉山の志功美術館でも)、これほどの大量のまた、さまざまな時期の作品を観たのは初めてだった。本当に、”目玉がブッとんじゃった”展覧会だった。

はじめに、わだばゴッホになる、と始めた油彩画が、あいさつがわりに出てくる。大正13年作の”八甲田山麓図”だ。そして、川上澄生の影響を色濃く受けていることが分かる、星座の花嫁版画集がつづく。鎌倉で観たものだな、と思っていたら、やはり棟方板画美術館蔵のものだった。ついでながら、志功は版画とはいわず、板画という。そして作品には、〇〇の柵と題するが、巡礼の人々が寺に札を納めていくように、祈りの気持ちで作品を納めていく意味合いがあるのだそうだ。”星座の花嫁”は10柵あるが、そのうち3柵が展示されている。

そして、志功が柳宗悦に見こまれた作品、”大和(やまと)し美(うるわ)し”、22柵のうち5柵が展示されている。これには面白い逸話がある(草柳の著作から)。昭和11年、彼はこの作品を国画展に出品したが、浜田庄司が来るとしょんぼりしている。あまりに長く、壁面の関係で展示できないと言われたという。よし、私が二段で並べるように交渉してやろう、といっているところに宗悦が来た。そして”これはすごい、二段どころか一段でいけ”と声を放った。志功が、宗悦、河井、浜田、芹澤介、富本憲吉らのグループに迎い入れられた瞬間であった。

そしてその後は、よくビデオ画像などでみるように、板にへばりつき、無我夢中で彫刻している姿で、志功独特の作品を次々とつくっていくのだ。それらが、展示室にずらりと並んでいるのだから、圧倒されてしまう。二菩薩釈迦十大弟子(六曲一双屏風)、倉敷国際ホテルのための制作した全長26メートルに及ぶ”大世界の柵”そして、佐藤一英の詩をテーマにした、両端の真黒遍・童が浄化されつつ、人間、行者、羅灌、菩薩、仏となり、中央に、鬼門仏が自分の体を割り、悪霊を通すという図になっている”東北経鬼門譜”(パネル装11面)などの大作には度肝を抜かれてしまう。

一方、志功の描く女人もまたいい。ふくよかな愛らしい顔をしている。弁財天さまも、観世音菩薩さま、あおもり妃さまも、漱石の”行人”の挿絵の女人もいい。みな同じような顔をしているが(笑)。裸体画も、谷崎の”鍵”の挿絵やその他にも、多く出てくるが、あまりエロチズムは感じない(笑)。また、豪快に、一気加勢に書かれたような、飛び散るような書もいい。故郷、津軽のねぶた祭りにも志功の作品が入りこんでいるが、これらの色彩豊かな絵もお祭り気分にさせてくれる。(ぼくも青森ねぶたを観に行ったが、いろんなとこで、志功が顔を出す)。いろいろな顔のみえる志功展である。

本展の第三部のテーマに、”旅と文学”とあるように、旅も好んだ。多くの海道シリーズも描き、それらも展示もされていて、楽しませてくれる。最晩年の志功は、芭蕉の”奥の細道”の足跡を辿る旅に出て、終着の大垣まですべてを回った。”旅に病んで夢は枯野をかけめぐる” 同じ思いが、世を去るとき、旅好きの志功の頭をかけめぐったに違いない。

静岡で偶然、出会った、素晴らしい展覧会であった。

・・・・・

大和し美し(一部)

二菩薩釈迦十大弟子

漱石”行人”挿絵

弁財天妃の柵

続西海道棟方板画;1月 宮崎 磐戸神楽の柵

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熱海梅園と熱海桜

2011-02-13 22:53:07 | Weblog

先日、静岡に行ったばかりなのに、また今日、静岡に行ってしまった。ただ、今回は、静岡といっても、神奈川県境の熱海。熱海といえば?・・・そうです、今の時期なら、梅園、そして、本州では一番早く咲く、熱海桜。今日は、昨日とはうってかわって、とってもいい天気だったもんだから、ふたりで出掛けたというわけです(汗)。何故、かというと、よく学び遊びよく遊ぶ、だからです。

東海道線からみえた富士山のうつくしかったこと。前日の冠雪で輝いていた。一時間ほどで熱海駅に。まだ10時。早くも満員のバスで熱海梅園へ。大勢の人々で溢れていた。肝心の梅は、どうか。早咲きが満開、中くらい咲きが五分、遅咲きは一、二分といったところで、まずまずの見頃。今日、来て正解だった。雲ひとつない青空(二、三の雲はあったけど、目をつぶって、相撲の八百長、大目にみてください、もし五月場所まで中止したら、フェイスを使って100万人デモを起こします;爆)。青空に映える、紅梅、白梅。もう、何度も行っているから、花だけさらっとみて、ゴンドラの唄、あの町この町、の作曲者、中山晋平の旧居(記念館)も沢田政廣記念美術館も入らず、韓国庭園はこの前、ヨン様料理店に行ったよしみに(?)、ちょとだけ覗き、足湯の娘さんの大根足だけはしばらく観察した(笑)。

そして、はやばやと帰りのバスに。市役所前で降りて、そこの”一本桜”の熱海桜をまず見物。満開だった。そして、少し歩いて、糸川沿いの”桜並木”の熱海桜。見事な咲きっぷりだった。イトカワといえば、あの小惑星、ということはイトカワを囲む熱海桜は、あの感動を呼んだはやぶさ号だ。標準木が糸川橋の端にあった。それが満開だったから、熱海桜は満開といっていいです。早くも散り始めの桜もあったくらいだった。まさに絶妙のタイミングでお花見できた。熱海桜も、はやぶさ号のように、たくさんの人に感動を呼んでくれた。今年も本当にありがとう。

そして、午後は、観桜、観梅のあとの定番のコース、MOA美術館へ。これがまた、最高。それについては、のちほど。こっそり、一部、教えます。又兵衛さんの山中常盤物語絵巻が観られましたよ。

熱海梅園

 

熱海桜

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芹沢介の屏風

2011-02-13 07:42:05 | Weblog

静岡市立芹沢介美術館で”ひろがる色と模様/芹沢介の屏風”展が開催されている。登呂遺跡公園に隣接するこの美術館を訪ねたのは、何十年振りだろう、懐かしく思った。芹沢介の型染を嫌いな人は、まずいないだろうと思う程、素直にうつくしいと思う。”いろはにほへと”とか”春夏秋冬”の文字をモチーフにした、色とりどりの文様は、いつまでも心に残っている。常磐沿線に住んでいた頃に、柏の”芹沢介作品(個人蔵)の美術館”に二度ほど訪ねたことがある。

今回は、芹沢介の屏風作品が15点も展示されていて、とても楽しい展覧会になっている。初期の作品”伊曾保物語屏風”では、イソップ物語をモチーフに、一図に一物語が文様化されている。あっ、あれはうさぎとかめの競争だ、とかカラスが壺のわずかな水を飲むため石をいれて水面をあげている場面とか、がちょうと黄金の卵、とか、言いながら観ているのは楽しい。大部分は忘れてしまっている。これをきっかけに、子供時代に読んだイソップ物語を覗いてみたいと思った(笑)。

同様に”四季文尽くし四角屏風”もそれぞれの季節の風物詩が文様化され、あれ、これは何だろうと、(楽しく)考え込んでしまう。”丸紋いろは六角屏風”は、いろはにほへと・・順に、なら”糸巻き”、は蝋燭、は刷毛、は人形というふうに、手仕事が文様化されている。これも同様に、謎解きの楽しみがある。一方、”いろは文二曲屏風”では、単純に、いろはにほへと・・・・・と独特の芹澤文字が六色の”江戸の色”を背景に描かれている。

もちろん、屏風だけではなく、のれん、夜具地、帯地もたくさん展示され、布は木綿、絹、麻と多彩だ。沖縄の紅型をはじめてみて感動し、それを基にした、芹澤芸術があるわけだが、明るくて、たのしくて、うつくしい、文様のかずかずは、観ていてあきない。ひとつ驚いた作品があった。あれ、棟方志功の十代弟子かな、と思ったら、芹澤作品だった。布ではなく和紙に墨一色の型染めで染めたもので、ある宗教団体に依頼されたものらしい。

履歴をみたら、鎌倉にも在住したことがあったらしい。同じ、柳宗悦の民藝運動の仲間、志功も鎌倉山にアトリエをもっていた(現在は美術館になっている)。由比ヶ浜の海からイメージした作品もある(鯛の文様)。静岡市の生まれだが、仕事場と住居は東京、蒲田にあった。宗悦同様、民家を移築し、住宅にしたとのことだ。その蒲田の住宅が移築され、美術館の近くに移築され、土休日に見学することができる。ぼくらも運良く、みさせてもらった。家には、志功の書(”愛染”の文字)や河井寛次郎作の茶碗なども飾ったり、使用していたらしく、その展示もあった。

85歳でなくなるまで筆を離さなかった。絶筆は”富士”。ふたりの人物が富士山を登るところを描いた小品だった。子供の描いたような絵で、描いている姿を思い浮かべたら、涙が溢れそうになった。

登呂遺跡のことは、また別の機会に書こうと思う。

芹沢介の家

 

 

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”江戸の東海道と大正昭和の東海道”展 in 由比

2011-02-12 18:30:50 | Weblog

由比といえば、旧東海道は、蒲原と興津の間の宿場町。そこに静岡市東海道広重美術館がある。どこかで、表記の展覧会のちらしを手に入れ、どうしても行きたくなった。広重はもともと好きだし、加えて、これまたぼくの好きな、大正新版画の川瀬巴水が競演するという、願ってもない展覧会だった。

期待した通りの展覧会で、一緒についてきたワイフも川瀬巴水フアンになってくれた。新橋にある渡辺木版美術画舗(大正新版画の仕掛け人、渡辺庄三郎の子孫)所蔵のもので、前後期合わせて、45点もの巴水作品が並ぶ。馴染みの、芝増上寺、馬込の月など、そして、東海道風景選集として、日本橋(夜明け)から始まり、地元の静岡県各所を中心に、彦根城の残雪までつづく。加えて、京都の嵐山、清水寺もみることができる。

”巴水ブルー”がぼくは好きで、今回の展示の中でも、”東海道・日坂”なんか初見だとおもうけど、気に入った。夕暮れの宿場町、こぬか雨が降っている。子供をおぶり傘をさして歩く母親。夜道の水溜りに家屋の窓からもれる灯りが影を落としている。”名古屋堀川”、星の夜、静まりかえる家々。一軒だけ灯りがともっている。川面にその影がうつっている。”京都清水寺”、清水の舞台の端にひとりの男の姿が。眼下の京の町をみている。

そして雪景色も。”三十三間堀の暮雪”。銀座通りと歌舞伎座の間を流れていた堀。雪といっても吹雪だ。屋根に雪がつもっている。”尾州半田新川端”雪中の河岸を歩くご主人さまに連れ添う犬。夕暮れだろうか、雪はまだしんしんと降っている。(今回、図録を売っていなかたので、絵ハガキをいくつか買ったのを下に示します)

そして”大正昭和の東海道”編は、静岡出身の伊藤孝之と土屋光逸の作品も10ほど展示されていた。いずれも巴水風であったのは面白かった。

そして、”江戸の東海道 歌川広重”が前期は15点ほど。いずれも、保永堂版。大好きな、”蒲原/夜の雪”は後期展示でみれれなかった。蒲原は隣りの宿場町。旅に出たら地酒(その晩も浜松の酒を飲みました;汗)。だから、蒲原/夜の雪も地元で観たかった。”芝増上寺の雪中の図”、”高輪月の景”、そして地元、”由井 薩埵嶺”(ゆい さったとうげ)、”吉原左富士”等の”地酒”(笑)も楽しめた。

その日は、家康公の駿府城跡の公園にも行ってきた。余は満足じゃ、の静岡一日目だった。そして、二日目は、芹沢介美術館、そして棟方志功展をやっている静岡市立美術館へも行った。これらも、またとても良かった。明日以降、報告したいと思います。

後期展のも入っています。

京都清水寺

尾州半田新川端

三十三間堀の暮雪

 

 

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北鎌倉の雪景色

2011-02-12 11:33:19 | Weblog

朝、起きたら、雪はやんでいたが、ベランダから見下ろすと、家々の屋根が雪で覆われていた。よし、今朝の散歩は北鎌倉の雪景色だ、と即座に決め、まだ、ぐーすかしているワイフに黙って、そっと、家を出た。大船から一駅、3分で北鎌倉駅に着く。早速、ホーム沿いに建つお宅の屋根に積もる雪と紅梅が迎えてくれた。

まず、東慶寺に向かった。山門に雪がかかり、いい風情を出していた。もちろん、まだ開門していないので入れないが、山門から覗いた、梅並木や鐘楼前の雪景色もゆかしく、俳句の上手な人ならすぐ一句浮かぶだろうなと思った。山門前の漱石・連れしょん(爆)の碑の、横の梅の木にかかる雪も、気持ち良さそうに朝日をあびていた。(いや、すぐ消えゆくわけだから、悲しそうに、というべきかな)。

そして、浄智寺へ。今回、一番のお目当ては浄智寺の山門からつづく鎌倉石の石段に積もっているはずの雪景色だった。しかし、なななんと、だった。あの、歳月を感じさせる、へこんだ石段の雪はすっかり溶けていて、普段着の姿をみせているだけだった。それでも手前の池の橋には残雪があり、それなりの風情だった。そして境内を覗くと、楼門の屋根とその向こうの木々はうっすらと雪の衣装をまとっていた。

浄智寺界隈に小津安二郎も住んでいたが、この辺りには落ち着いた感じの家屋が多い。雪景色が似合う。そして、源氏山の登山口がすぐそこにある。ちょっと滑りそうで、こわかったが、中腹まで登ってみた。雪道や雪をかぶる木々がうつくしい。ときどき、雪がぱらぱらと落ちてきた。

源氏山を下りて、今度は明月院に向かった。ここは門をばっちり締めているので、中をうかがい知ることができない。しかし、近くの茅葺の家や、庭の山茶花の花や庭木などに、かかる雪がやさしい気持ちにさせてくれる。家々の向こうにみえる雪山も、普段とは違う姿をみせてくれた。

途中、”今どこにいるの”とワイフから電話が入り、せっかく詩人モードになっていたのをぶちこわされてしまったが(爆)、今年一番の朝散歩だった。

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雪の公園

2011-02-11 21:30:47 | Weblog

静岡での一泊二日の小旅行から帰ってきた。静岡から小田原までの”こだま”では、どの駅も、ただの”小ぬか雨降る 御堂筋 こころ変わりな夜の雨”、欧陽菲菲の風景だったが、東海道線に乗り換えて、茅ヶ崎あたりから”雪が降るあなたは来ない 雪は降る重い心に”のアダモの景色になってきた。辻堂、藤沢、そして大船に着くと、外は”雪の降る町を雪の降る街を思い出だけが通り過ぎて行く”とダークダックスの景色になっていた。

雪景色の好きなぼくは、ワイフを先に行かせて、もう暗くなった大船の町を歩いた。静岡、由比の東海道広重美術館で観て来た、広重の雪景色や川瀬巴水の夕闇の雪景色なんぞを思い出しながら、ゆっくりとゆっくりと歩いていた。

家の近くの公園までくると、ブランコやすべり台が、白くなっていて、これまでの歌謡曲路線から言うと、”君はおぼえているかしらあの白いブランコ”のビリーバンバンの景色というところだが、そのとき、ぼくが思い出したのは、黒澤明監督の”生きる”のシーンだった。胃癌になり余命いくばくもない市役所の課長、志村喬は、最後の仕事として、永年の住民の要望であった公園の設置を手がけ、上司らの反対など幾多の困難を乗り越え、完成させる。雪の降る夜、完成した公園のブランコに乗り、志村は、”いのちみじかし 恋せよおとめ あかきくちびる あせぬまに 熱き血潮の 冷えぬまにあすの月日の ないものを” 、ゴンドラの唄を歌いながら、息をひきとる。忘れられない、名場面だった。

 

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東慶寺 ふたつの”発見”

2011-02-10 06:24:21 | Weblog

東慶寺には、何度訪ねたかわからない。でも行くたんびに新しい発見がある。もちろん、日々、花も木も草も変わっていくわけだから、当然のことともいえる。でも、境内にある、著名人のお墓については、もうこれ以上、新たなものはみつからないだろうと思っていた。それが、この日、ふたつも見つけてしまったのだ。

(昨日)午後から、晴れ上がってきたので、東慶寺に散歩に出かけた。梅がだいぶ咲きそろってきただろうと思ったからだ。思った通りであった。山門を入ると、梅の並木の多くが花を開き、それらがきらきらと輝いてみえる。ちょうどこの時間帯は、太陽が”向こう正面”にあり、逆光となるが、裸眼には、とてもうつくしくみえる(逆にカメラではよく撮れないが)。山門近くの鐘楼前の梅もだいぶ咲いてきた。梅並木の途中の、黒塀前のマンサクも、黄色の細い花弁をいっぱいに拡げている。

いつものように、何名かの文化人のお墓参りをした。そのとき、突如、”老いらくの恋の川田さんのお墓だよ”という声が、”老いらくのグループ”(爆)の中から聞こえてきた。好奇心の強い(汗)老いらくのぼくは、ほかのお墓を参るふりをして、そちらに近づき、彼らが去ったあと、そのお墓の前まできた。墓石に川田順と刻まれている。”老いらくの恋”の言葉の源泉は、この方が詠われた歌にある。歌人で、自分が68歳のとき、40歳の大学教授夫人と恋に落ち、京都の真如堂(紅葉がきれいです)で自殺をしようとした。結局、生きて、恋を全うし、結婚することになるのだが、川田さんは”死なむと念ひ生きむと願ふ苦しみの百日つづきて夏去りにけり”と詠い、”墓場に近き老いらくの恋は怖るる何もなし”と添えた。その、”老いらくの恋”が流行語大賞(今ならね)になったというわけだ。

そして、ぼくは、ついでながら、普段立ち入らない、その辺りのお墓を探索してみたら、新たな著名人のお墓を見つけたのだ。安宅英一のだ。2007年、三井記念美術館で開催された”安宅英一の眼、安宅コレクション”を観に行ったことがある。安宅コレクションは、安宅産業破綻後、大阪市立東洋陶磁美術館に移っているが、ここも去年、訪ねている(今年も3月行くつもりです。大相撲春場所に合わせていたのに、中止になり悔しい)。ぼくには、お馴染みの方なのだ。安宅産業の創業者、安宅弥吉のお墓は、彼が財政的援助をした、鈴木大拙と並んである。その息子が英一なのだ。そこからは大分離れた場所にあるので、今まで気付かなかったのだ。ついでながら、出光美術館の関係者、出光佐三(安宅のあと大拙の援助をした)の墓は大拙と弥吉の墓に隣りあっている。

犬も歩けば棒に当たる。この日もふたつの発見をした。だから、散歩は楽しいのだ。ぼくも”老いらくの恋”の歳に近づいてきたが、たとえ、美貌のアラフォーを追いかけても、”かけこみ寺”の東慶寺にかけこまれてしまうのがオチだろうから、やめておく(爆)。

 

 

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蕪村の屏風絵と黒田清輝の京都

2011-02-09 11:19:02 | Weblog

昨日は、ふたりで東海道線で西に向かい熱海に行く予定だったが、天気が悪く中止した。その代わり、大船駅から、そのまんま東へ向かった(本当に都知事戦に出るのだろうか、出ても惨敗だろう)。上野の東博で遊んできた。あの素晴らしい平山郁夫展をもう一度、という手もあったけど、本館で、”黒田清輝と京都”の特集陳列があることを知り、平常展を観ることにした。二月に入り、正月展示とは違った作品がみられるだろうと、いうこともあった。玄関に入り、特別展示の一覧をみた。国宝室は、虚空蔵菩薩像に変わっていたし、前述の黒田清輝展、そして、二時から学芸員説明付きの蕪村の屏風絵”蘭亭曲水図屏風”も七室に展示されている。良かったと思った。さすが、東博、いつ来ても楽しめる。だから一年パスポートを買っているのだ。

はじめに、黒田清輝展を観た。黒田は1893年、9年間に及ぶ、フランス留学を終え、その年に京都を訪れ、まるで、珍しい異文化に触れた思いがしたという(もう、フランス人になっていたのでしょうか;笑)。そして、京都を題材とした(とくに舞妓さん)絵を描き始めた。この展示室では、大作”昔語り”の一連の下絵と”舞妓”が飾られている。”昔語り”は住友に所蔵されていたが、戦災で焼失し、現在は下絵しか残っていない。舞妓さん、草刈りの娘さん、僧侶など6名が一同に会しているのだが、それぞれの登場人物の詳細なスケッチと、淡い色が加えられた下絵がたくさん現存しているのだ。全体像の下絵もあり、ある程度、想像はできた。焼失しなければ、貴重な作品になっていたことだろう。

そして二時近くになったので、七室に向かった。もう大勢の人が集まっていた。若い女性学芸員が30分もかけて、ひとつの作品を説明してくれる。こんな贅沢なことはない。それにぼくは、蕪村については、俳句のことは去年、生涯学習センターの講座に出席したから、ある程度は知っているけど、絵のことになると、疎い。川端康成が国宝の、蕪村の絵画をもっていたことくらいしか知らないので、今回のガイド付きの鑑賞に出会えたことはラッキーだった。

蕪村、52歳のときの作だそうである。ということは俳句を始めた頃だ。まず屏風の画布の話があった。最高級の絹を使った絖(ぬめ)で、高価でお金持ちのパトロンがいないと無理だろうということだった。蕪村も絖を使った絵を描きたくて、富くじを買っていたという話もあるらしい(爆)。実際、光沢もうるわしく、観る方角によって変わるし、質感もある、との説明があった。

画題は、ぼくでも知っている”蘭亭曲水図”。書聖、王義之が文人四十一人を招き宴を開いた。曲水に盃を流し、それが目の前に来るまでに詩をつくる。つくれなかった人はその酒を飲まなければならない(ぼくなら、八百長して、わざと詩をつくらない、お酒の方がいい;爆)。のどかな時代だったなあ、中国も。屏風絵の中に入って、それぞれの人物と対話するのも美術鑑賞の楽しみのひとつですと。たしかに、画面の中には、酒ばかり飲んでる人がいる。ああ、こんな人とあほマスコミを肴に飲んでみたいなあ(汗)。絵の上部の文章は蕪村が書いたんですか、という質問が出た。蘭亭序というもので、別の人が書いたらしい。天気も良く、のどかな、楽しい一日だった、という意味のことだそうだ。屏風絵は、目が右から左へ誘うように、また時間が経過するように描かれている。また遠近も色の濃淡で表している。

春の海 ひねもすのたりのたりかな、 といったのどかな風情の、蕪村の屏風絵だった。これから、蕪村の絵も見逃さないようにしよう。

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