本日の第3弾は、“鉄”分とは全く縁のない、我が故郷『波子』の風景を。
わが町は、古い漁師町で狭い土地に入り組んだ路地が多い町です。高台から町を望むと、赤い石州瓦の家並みが美しく、山陰線に蒸機が走っていた時代には、“青い海と白い浜、緑の松と赤い屋根の家並み”をバックに蒸機を撮影すると良いと聞いた事があります。実際に雑誌等では作品を拝見した事はありませんが、地元のカメラマンが撮影した写真は何点か拝見した事があります。今やその風景も某水族館の巨大モニュメントのお陰で台無しに… 撮影できた場所も自然に還ってしまったようです。
そんな町並みの、古き良き時代を伝える建物を、散歩がてらに撮影してみました。
造り酒屋の作業場
ウチの親父が言うには、昔は数件の造り酒屋があったそうです。酒を仕込む時には、蔵人が桶を背負って、近所の井戸から水を運んでいたとか… 私が物心ついたときには、造りは辞めておられましたが、私が学生の頃までは蔵も残っていて、大きな仕込み桶もありました。
唯一の醤油醸造場。
ここの近くを通ると、いつも醤油の香りが漂っていました。ウチの実家では使っていないのですが、機会があれば私は使ってみたいなと思います。この日はいつもの香りがしなかったのですが、今も造っているのでしょうか…
ここの蔵の外壁は、焼き杉の板で新しくなっていましたが、今やその技術が廃れてしまった『鏝絵』は健在でした。
唯一の診療所。
ここは唯一の病院で、私も子供の頃にはお世話になりました。ここの先生は優しい口調の先生でしたが、注射の時はちと怖かったような…(笑)
その先生が亡くなったのも20数年前。それ以来は週に1~2回、都野津から先生が診察に来られます。
以前、のぶ太郎さまに『人通りの多い道路沿いには琺瑯看板がある』と聞いた覚えがあり、キョロキョロしながらママチャリを走らせていると、たった1枚だけありました。この道は現在の9号線が出来るまでは、国道ではないけど主要な道路だったそうです。昭和40年代までは国鉄バス路線でもあったんですけどね。
今では空き家も多くなり、そんな空き家も取り壊され、このような看板も一緒に消えてしまうようです。
ちょっと、自分だけの思い出に浸ってしまった書き込みでした。
わが町は、古い漁師町で狭い土地に入り組んだ路地が多い町です。高台から町を望むと、赤い石州瓦の家並みが美しく、山陰線に蒸機が走っていた時代には、“青い海と白い浜、緑の松と赤い屋根の家並み”をバックに蒸機を撮影すると良いと聞いた事があります。実際に雑誌等では作品を拝見した事はありませんが、地元のカメラマンが撮影した写真は何点か拝見した事があります。今やその風景も某水族館の巨大モニュメントのお陰で台無しに… 撮影できた場所も自然に還ってしまったようです。
そんな町並みの、古き良き時代を伝える建物を、散歩がてらに撮影してみました。
造り酒屋の作業場
ウチの親父が言うには、昔は数件の造り酒屋があったそうです。酒を仕込む時には、蔵人が桶を背負って、近所の井戸から水を運んでいたとか… 私が物心ついたときには、造りは辞めておられましたが、私が学生の頃までは蔵も残っていて、大きな仕込み桶もありました。
唯一の醤油醸造場。
ここの近くを通ると、いつも醤油の香りが漂っていました。ウチの実家では使っていないのですが、機会があれば私は使ってみたいなと思います。この日はいつもの香りがしなかったのですが、今も造っているのでしょうか…
ここの蔵の外壁は、焼き杉の板で新しくなっていましたが、今やその技術が廃れてしまった『鏝絵』は健在でした。
唯一の診療所。
ここは唯一の病院で、私も子供の頃にはお世話になりました。ここの先生は優しい口調の先生でしたが、注射の時はちと怖かったような…(笑)
その先生が亡くなったのも20数年前。それ以来は週に1~2回、都野津から先生が診察に来られます。
以前、のぶ太郎さまに『人通りの多い道路沿いには琺瑯看板がある』と聞いた覚えがあり、キョロキョロしながらママチャリを走らせていると、たった1枚だけありました。この道は現在の9号線が出来るまでは、国道ではないけど主要な道路だったそうです。昭和40年代までは国鉄バス路線でもあったんですけどね。
今では空き家も多くなり、そんな空き家も取り壊され、このような看板も一緒に消えてしまうようです。
ちょっと、自分だけの思い出に浸ってしまった書き込みでした。