まろねふの廊下からの呟き

中年オヂさんの呟き転じて、人生備忘録となる…

立ち喰いソバ

2006年05月30日 | 廊下から
今日、いつものように藤原模型店に向かう途中、小腹が空いたので久々に広島駅新幹線口コンコースで、立ち喰いソバを食べました。
以前から知ってはいたのですが、ここでは『うどん』と『そば』でダシを変えていました。今日はそれを試してみる絶好の機会となりました。出てきた出汁を見て、関東風の醤油色の濃い味を想像しましたが、意外と塩辛くなく、ダシの効いた旨口に仕上がっていたと思います。今日は『肉天そば』でしたので、甘口の肉汁とうまく調和して、大変美味しく頂きました。

駅の立ち喰いスタンドは、旅行の時に大変重宝します。今までに美味しいと思ったのが、小倉駅8番ホームの『かしわうどん』、高松駅の高徳線ホーム脇にあった時代の『ジャコ天うどん』でした。黒崎駅の『かしわうどん』は小倉駅より量は少なかったのですが、鶏肉がジューシーだったと記憶します。あと、中学生時代の旅行途中に、雪の中で食べた備後落合駅の『おでんうどん』が美味しかったですね。反対に一番最低だったのが、鳥栖駅ホームで食べた『中華そば』で、生めんを単に湯通ししただけのシロモノで、これはいただけませんでした。名古屋駅の関西線ホーム(だったか…?)の『きしめん』は、異常に醤油辛かったですね。
まぁ、これは私の個人的な意見なのですが…

やはり、立ち喰いとは列車から降りて、ホームですするのが一番美味しいと思います。昔ながらの素朴なスタイルだったのが、益田駅2・3番ホームと地平時代の出雲市駅が良い雰囲気でした。メニューも『かけうどん・そば』のみ、トッピングは生卵だけ。器は列車にも持ち込めるプラスチック容器で熱くて持てないのが、正しい立ち喰いソバのスタイルではないでしょうか?…(爆) 出雲市駅は高架化と共に消えましたが、益田駅ホームは今でも営業しているのでしょうか…?

列車で長距離を移動する機会も少なくなり、ましてや長時間停車の間にホームで立ち喰いをすする機会なんて、殆ど体験できなくなってはいませんか? 皆さんは、どこの駅の立ち喰いがおすすめですか?


今日はデジカメを持っていなかったので、同じ立ち喰いの、出汁が変る前の天ソバの画像を。海老の10倍以上の大きさの衣の天婦羅も、意外と好きなんです(笑)

緩急車 2

2006年05月27日 | 廊下から
懐かしい緩急車へのコメントに、島原鉄道の救援車と事業用貨車のお話が出ましたので、画像をペタリと…

平成7年11月、島原鉄道を訪れた時に南島原駅で撮影した貨車郡です。唯一残っていたD37型機関車は救援車と連結した状態で、構内に留置されていました。救援車は元ワム280000、バラスト散布用にホキ800が2両(内1両は愛野駅に留置)、要員移動用にヨ8000がいました。
DLは後に廃車となり、静態保存されたと聞きましたが、これは今も現存しているのでしょうか? 新しい動車はいるのでしょうか? どなたかご存知の方いらっしゃいませんか?



ヨ8001とワム80001。ヨの奥にオホキ802が居ます。南島原にて


オホキ801 愛野にて

平成4年8月に、初めて島原鉄道を訪れた時には、クラシックな元国鉄ワフ車が救援車として在籍していました。バラスト輸送用の木造無蓋車は撮影できませんでしたが、元国鉄ワフ22000と出会えて尚且つ、旧番号が読み取れた事に、気動車達と出会えた以上に興奮したのを今でも覚えております。
ワフ22が救援車、ワフ23は要員輸送車のようでした。


救援列車?


ワフ22(元ワフ22782 旧所属不明)

緩急車

2006年05月25日 | 廊下から
先日、天プラのEF15を買ったお陰で、私の鉄道では黒貨車の増備が続いております。数年前に買って少しつついただけのものもありますが、新たに購入した貨車もいます。購入して車体を組んだまま10年近く放置していた緩急車キットも、めでたく塗装待ちになりました。

と、いうことで私の『ヘタクソ写真館』から、“活きた”緩急車の写真を
紹介してみましょう。


ワフ30146 昭和58年頃 浜田駅

なぜか、浜田駅にカメラを抱えて行った時に、偶然撮影したものです。撮影したのは、浜田行普通貨571列車で、到着後に本線上で突放作業を行う、列車でした。当時、交通量が多い構内西方の田町踏切を塞いで行う作業を眺めた事がありますが、路線バスも含め、踏切で作業が終わるのを、のんびりと待っていました。今だったら間違いなく新聞沙汰ですね。


昭和59年8月 波子にて

59年2月改正以降、貨物列車は大幅に削減され、島根県西部では米子~益田(1本は岩国行)間に2往復だけとなりました。そのうちの岩国行5581列車では、ヨ8000以外にヨ5000とヨ6000が数日置き(不定期でした)に運用されていました。結局、ヨ6000は撮影できませんでしたが、辛うじてヨ5000の現役時代の姿を記録できました。夕陽を浴びて快走する姿に、郷愁を感じます。


昭和61年12月頃 波子にて

確か、60年3月改正で東松江~江津間の貨物列車が廃止され、益田方面から江津行の貨物列車は、厚狭機関区のDD51-800番台の牽引となりました。60年11月から電化区間での最後部の緩急車連結の原則廃止に伴い、上り列車の緩急車連結位置が、最後部から機関車次位に変りました。(下りは従来通り)
列車無線が完全整備されると、いつの間にか緩急車の連結も無くなり、何だか気が抜けた編成となってしまいました。

ヨ6000の現役時代の写真は撮影できなかったのが残念でした。これら地味な緩急車の写真で、古きよき時代を味わっていただけたらと思います。



琴電 890

2006年05月23日 | 廊下から
琴電のお気に入り電車の第3弾、もっとも好きだったのが890号です。
昭和2年川崎造船で製造された、西武鉄道モハ550が当初の形式で、後に山形交通へ売却され、昭和51年に山形交通の廃止により、同社から琴電入りしました。当初は電動車740として琴平線で活躍しておりました。昭和58年に制御車化され志度線・長尾線用となり、890と改番されました。志度線分断時に志度線用となりましたが、平成10年に600型の代替廃車となりました。
さて、一番好きだった割には撮影を殆どしてなく、辛うじて2枚見つかりました。撤去された運転台にポツンと残されたマスコンが、車内で見た思いでなのですが、写真がありません…撮っていたと思ったのですが…

琴電の他にも、伊予鉄や津軽鉄道にも兄弟がいたこの電車。少し大きな車体で讃岐平野を快走する姿が懐かしいですね。


長尾線で運用中。この時、正面連結器は並型自連のまま。昭和63年 瓦町


今橋で検査中。平成5年

琴電 81

2006年05月22日 | 廊下から
私のお気に入りだった、琴電の第2弾。80型(二代目)の81号です。
この車両は、昭和51年に東濃鉄道からやってきましたクハ201で、更にさかのぼると、大正15年製の南武鉄道モハ100となります。
80型の登場時には、82号と2両が存在していましたが、昭和58年に元三岐鉄道1013型が登場したのに伴い、860・880・890型が志度・長尾線へ転入し82号が廃車、残った81号は同じく東濃鉄道から来た72号と組んで、長尾線で使用されました。
平成6年の志度線分離時に、志度線へ転属しましたが、ここでは予備車扱で定期運用が無く、今橋の車庫に留置されている事が殆どでしたが、平成10年に600型の増備により廃車となりました。
実はこの車両、走行している姿を見たのが、初めて訪れた昭和63年12月の1回だけで、後はラッシュ運用を終えて、平木駅に留置している姿を目にするのが殆どでした。今のように簡単に情報が入るわけでもなく、いつも行き当たりばったりの撮影でしたので、走行シーンが記録できず、乗れなかった事が今でも悔やまれます。81号のナンバーの切り抜き文字が、手元に残っているのが、せめてもの救いでしょうか… 


営業についている唯一の姿。760の後が81。 昭和63年12月 瓦町


朝のラッシュ運用を終えると、平木で留置されていました。平成5年5月


志度線予備車となった晩年、連結側が顔を見せた時の1枚