まろねふの廊下からの呟き

中年オヂさんの呟き転じて、人生備忘録となる…

愚か者出現

2006年06月11日 | 廊下から
今朝6時前、千田車庫前にとんでもない大馬鹿者が居ました。電車祭りの為に来た奴です。
早朝で自動車が少ないのを良い事に、車道の真ん中で電車の写真を撮り出し始め、挙句には軌道敷内で電車を撮影し、対向の電車の運行までも妨げ写真を撮影している輩がおりました。どう見ても、分別が付く大人でした。カメラを持っていればその愚行を記録し、この場で掲載するのでしたが… たった一人の愚行が他の仲間に対して、また電車に対して迷惑をかけると言う事を肝に銘じ節度ある行動を取って頂きたいと思います。

今朝の愚行は、我々乗務員の仲でも大変評判が悪く、マニアに対する評価がまた一つ落ちました。万が一、本人がここを見ていたら、猛省を求めます。



手動両替器

2006年06月11日 | ひろでん
今日、6月11日は、千田車庫で『第11回路面電車祭り』が開催されました。今年も大盛況だったようで、多くの方々が訪れたとのことです。私は、朝から夕方迄、比治山線を乗務していたので様子が判りませんが…

『電車祭り』とガラクタ(?)にちなんで、先日書き込みました、寮の倉庫から発掘された手動両替器の画像を。



現在、市内電車で使用されている自動両替器の4代前、もう25年以上も前ですか、運転士が個人で手動両替器を携行し乗務しておりました。運転台の横に皿状の取り出し口があり、その上に本体を乗せて使用しており、乗客が投入口に硬貨を置くと、運転士が確認してレバーを操作していました。
両替は硬貨のみで、500円札の場合は乗務鞄(あの、がま口です。)の中から両替をしていました。私が運転士になった当時、その頃の名残で500円の貸与金がありましたが、もっぱら両替器の不良時の払い戻しや、両替をせずに運賃を投入した乗客に対しての釣銭でした。


乗客がこのように硬貨をおきます。


このレバーを操作して両替金が出て、上の硬貨は本体金庫に落ちます。


100円は、ここを操作。

実は、これと同じ両替器を去年の電車祭りで販売しました。某主任が倉庫から引っ張り出してきて、面白半分で置いたところすぐに売れて行き、今度は初代の小田原式自動両替器まで引っ張り出してきて売ってしまいました。
『買っていくマニアの心理は判らん…』と言いながらも、傍で見ていて楽しかったそうです。今年は何を売ったのだろう、私も傍観者をしたかった…(笑)


思い出の線内車 2

2006年06月07日 | ひろでん
思い出の線内車第2弾は、元阪急500型の1070型です。昭和41年に8両が入線し、1071~1078となり活躍しました。私が入社した当時には1071~1074が3800型入線の為に休車となっており、1075~1078の2編成4両が活躍しておりました。

この電車、2両編成で片側3箇所にしか乗客ドアがなく、午前ラッシュ時には必ず遅れる電車でした。系統35番の宮島7:09(だったかな?)発の○日○西高受けは、1070型だと5分以上は確実に遅れました。
最後まで白熱灯を使用していて、夜の車内は何ともいえない雰囲気でした。そんな電車も、昭和63年11月には3804・5の増備により休車となりました。ノッチを入れると2両が別々にギクシャクしながら加速する、当時田舎から出てきたばかりで、気動車と客車しか知らなかった私には、『古い電車とは乗り心地が悪いものだなぁ』と思ったものです。

ここで、昔の人に聞いた怖~いお話を… 私が入社した頃は、上下の最終便は宮内のトンネル付近ですれ違っていたのですが、ある日の下り最終便の運転士(当時は助役が担当)が、上り最終便の1070型とトンネル内ですれ違い、何気なく上り電車に目をやると、客室内には旧日本軍の兵隊がぎっしり乗っており、一斉にこっちを向いてニコッと笑ったと…本当に怖かったそうです。



商工センター~草津南にて 昭和63年


夜の車内


営業運転最後の日 昭和63年11月7日
廿日市から折返し商工センター行が最後の営業でした。が実は…

思い出の線内車 1

2006年06月05日 | ひろでん
今の広電は、鉄道線である宮島線と市内線の直通運転をしているので、時代の波に飲まれず、現在の隆盛を見せているものと思います。
私が入社した昭和63年には、線内車と称した高床車も宮島線で運行されていました。単行の1061、元阪急500型の1075+1076、1077+1078、同じく元阪急210型の1081+1082、元京阪神急行電鉄の木造車を鋼体化し2両連結とした、1091+1092、1093+1094の計11両が在籍しておりました。

まずは、唯一単行運転を行っていた1060型(通称ロクイチ)を紹介します。昭和32年にナニワ工機で製造された高性能車でしたが、次第に直通車が増備された為に、1両のみの新製で終わってしまった車両で、後年に冷房を搭載する事も無く、平成2年に廃車となりました。
私が入社した当時は、競艇臨時の他には平日の朝、西広島~広電廿日市の1往復だけに使用されており、普段は西広島1番線の奥にあった留置線で待機しておりました。
ロクイチの限定運用だった、西広島8:42発の廿日市行は某S女子大受けの系統(仕業番号42番)で、チェックのブレザーの女子大生に囲まれての乗務でしたが、私は公休日の関係で殆ど乗務することがありませんでした。
ロクイチの扉扱は他車と異なっており全て車掌が行い、進行方向左側の全てを扱う『此の扉』、右側を扱う『他の扉』の2種類がありました。上り西広島行の終点では1番線に入線したから、他の扉を扱うわけですが、新人の頃にはよく間違えて反対側をあけたりしたものです。今だから言えるのですが…(笑)

またロクイチは、発車までの手順がのんびりしていて、車掌扉の扱が終わると合図を送り、運転台扉の扱が終わっていると運転士が警笛を送る、車掌は警笛を確認し扉を閉めて、運転士は戸閉を目視で確認してノッチを入れる手順でした。今の時間に追われた運転からは想像できない、のんびりした運転でした。

合図『ブー、ブー』、警笛『プァン』、戸閉『プシュー』…。 のんびりしていた時代が懐かしいですね。



競艇臨時の折返し待機中の同車と車内 広電宮島駅 昭和63年


巡り巡って現在手元にあるロクイチの車掌スイッチ