6月7日
私の祖母の従兄弟、忠憲おじさんに会うのは何年ぶりだろう・・・
20年近いかもしれない。
私が小さかった頃、初台の家に時々訪ねたことがあった。
その頃、周囲は畑ばかりで広い敷地と広い家がかすかに記憶の中にある。
瞬く間に初台が都会になり、50年程前、その広い敷地にアパートを建て、
そして30数年前、その喧騒を逃れ、藤沢に移り住んだ。
連れ合いの章子おばさんは、長年にわたって姑の世話をし、
20年間は介護の日々だった。
その姑は、私の曾祖母の姉妹で、我々には優しかったが、
お嫁さんには厳しい人だったという。
姑が亡くなって、10年間は夫婦であちこち旅行もし、とても楽しい日々だったとか。
ところが、その後、おじがパーキンソン病で、徐々に動けなくなり、
その上、脳溢血でほとんど寝たきりになって16年が経った。
たまに、親戚の誰かの葬儀の時におばに会うぐらいで、
ほとんど行き来はなくなっていたのだが、
思い切って、横浜のボケさん(私の従姉妹)と連れ立って、母も一緒に訪ねて行った。
もうすぐ90歳になるおじは、うなづきながら「もう誰だか分からないよ・・」
と言いながらも、穏やかでうれしそうだった。
77歳になるおばは、「ここ数日雨が続いた時に、すごく落ち込んで、
私の一生はほとんど人の介護で終るのか・・・・もういいかなって思ったの。
お父さんに『ねえ、まだまだ生きていたい?
私は何の未練もないんだけど・・・』って言ったら、
『僕はいつ頃動けるようになるかな・・』と答えたのよ。」と言って微笑んだ。
立派に成長した二人の子供達はそれぞれに家庭を持ち、
働き盛りで、めったに顔を見せることもないという。
いつも気丈に明るく振舞っている母親に、甘えているのだろう。
おじが亡くなった後のおばの気持ちを考え、
二人一緒に有料老人ホームに入ることを、三人で懸命に勧めた。
他人事ではない、私達もやがて行く道・・・
ひとしきりおしゃべりを楽しんで、別れを告げ、玄関に出ると、
シャボテンの美しい花が咲いていた。
一日限りの淡い命。
思わずシャッターを切った。