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連載 39 102歳まで生きた母の親・兄弟・姉妹の思い出から

2015-06-09 | 「私がお話し」します。

母・絢子は、明治42年・1909年1月12日生まれ、

10人姉妹・兄弟 の上から二番目

 

 第二章  絢子さんの親・兄弟・姉妹の思い出から

このような家族の中で育つ

ご先祖様、絢子さんをよろしくお願いいたします。

 

母・絢子は、明治42年・1909年1月12日、10人姉妹・兄弟 の上から二番目に生まれました。父は、大橋 孝(よし)、母はスエでした。

今では考えられないくらいの子沢山です。一生の出来事を明治・大正・昭和・平成の時代背景とダブらせて考えれば、その時代に生きた人々の伊吹を感じます。 

一方「富国強兵・生めよ増やせ、」という時代に翻弄(ほんろう)されて生き抜く家族の姿が目に見えるようです。

 どのような家族だったのだろうか、もう1人になった10番目の妹・俊子さん(東京在住)にも聞いて出来るだけ正確なものにしました。 さらに福島県の霊山町、大橋がはじまったこの町にも足を運び、現在のことも付け加えておきます。

  

 母スエと長女の美津江が同じ68歳でなくなっているので、自分もたぶんそのあたりで死ぬと思っていたらしく、67~8歳の頃は、なにか、そわそわと、どことなく落ち着かなかったように記憶している。しかしその歳を過ぎれば、いつ死ぬかなどということは気にも留めていないようでした。

                ・・・・・・・・・・・・・・・・・

母の両親兄弟・姉妹について」聞いたことを書いておこう。

 母の話は、父・孝が警察官だったところから始まる。何歳だったか定かではない。
長岡京市奥海印寺の入り口に今でも駐在所がある、そこに勤務していたので、奥海印寺から柳谷・大沢あたりまでの知り合いが多かった。
 父はドロボウの移送中に、トイレに行きたいといわれ逃がしてしまい、官職を辞職した。武道はあまり得意でなかったようだ。武勇伝を聞いたことがない。
 その後「向日町大丸・大橋呉服店」を開いた。現在、私・満が住んでいる家はその時のもので、宮大工の先々代の安井杢工務店が建築した。今は引退されている元会長の安井洋太郎氏は、「あの家は絶対つぶすな、もうあのようなものは建てられない」とよく言われた。小さい家なのに、・・・・ 

呉服店をしたときのお得意さんが長岡京市の奥海印寺に多く、官職が後で役に立ったのである。
 さらに、乙訓で最初?の代書屋さん、(字のかけない人のために手紙の代筆をするので代書屋さん)という今の司法書士で土地の売買などの書類をつくる仕事をはじめたが、人脈は生き続けることになる。

 乙訓人名辞典(昭和新聞社発行)に「孝」も「母の弟・正孝」も載っている。さらに大正末・昭和初め頃の向日町商店街の風景を撮った昭和新聞社の記録映画にも出てくる。
孝・よしは、昭和4年頃向日町議会議員だったと向日町史に載っている。また、学務委員(現教育委員)をしていたし、晩年地元向日区の役員をしていて知る人は怖いオッさんやったといっていた。

 私が覚えているのは、恐いおっさんではなく、玄関を入った横の部屋で、大きな四角い火鉢の前にすわり、本を読んでいた小柄なおじいさんの姿だ、孫が来ると火鉢の引き出しから、おかきやあられを出してくれた。火鉢の引き出しは乾燥しているからそこに入れていたのだろう。
      
  孝の弟・大橋五郎は、
 時々京都に来たときに立ち寄ったという。父は孝と書いて「よし」と読んで次男で、彼は三男なのに五郎だ。母は、五男と思っていたらしいが本人が三男と書いている書を見つけたから三男に間違いない。

 学習院大学の数学の教授をしていた。病気になり休職し、福島の実家で静養していたが、(大正5年ごろ)福島の菩提寺を廻って大橋家の系図を書き残している。後に高知で高校の教師をしていたという。

 飯坂温泉郷の中に常泉寺という寺があり、そこに先祖代々のお墓がある。江戸時代の終わり頃からのご先祖はそこで眠っているが、それ以前は、霊山町小国寺というところにあるらしい?ので見に行ったが、墓は発見できず、お坊さんが常駐しない寺で古文書の調査は後日と言うことになった。

  彼の作った家系図を私が口語文に直して最後尾につけておくが、ずうと 遡ると北畠親房まで書かれている。DNAでも調べない限り真相はわからない。しかし、霊山町にある霊山神社は、北畠親房の長男・顕家をまつる神社であり、霊山町の4割?~5割?の家が大橋という姓であったという。今でも右も左も大橋である。平成の合併で伊達市霊山町になっているが、合併時の町長さんは、共産党の大橋よしひろさんで、電話で話をしたが、次回にはお会いしたいと思っている。 
 
  五郎さんのお葬式には、天皇から樒にかわる白い布と何?か送ってきたことを母は覚えているという。

 孝の兄に三(みつ・長男)という伯父さんがいた。彼は、色白でちょっと歌舞伎役者のような、かっこいい伯父さんだったという。時々家に来ていたという。 

コメント
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