第二の理由は、「公文書偽造で無効だ」と言う事です。
19世紀末から20世紀当初の国際情勢の下でも、「条約なき占領」は、国際法違反という考えでしたから、日本政府は、諸外国から国際法違反の占領だという批判を受けないように、先ほど言った4つの協約と五つ目の併合「条約」文を日本側が一方的に用意をしたのでした。
当時から国際条約を締結するには、決まった形式がありました。正式条約は、国交を結ぶときや、国の主権にかかわること。
二つ目の略式条約は、国交のあと、行政的なものを決めるときでした。
李氏朝鮮を相手に結ばれた「日朝修交条約」は、正式どおり、韓国の法的手続きもクリアして作成されて結ばれました。
①は、王の代役で交渉する人に対する王の委任状です。御名御璽が必要です。これはあります。
②は、条約文です。これには委任された人のサインと印鑑が必要です。これもあります。
③は、両国皇帝の名で批准書をつくり両国が交換します。「勅諭」・国民に知らせる公文書です。この公文書にも御名御璽が必要です。 すべてあります。
先にのべた4つの関連文書が正式な形式を整えた条約だったとすれば、条約による半ば占領状態だと言い逃れができるかもしれませんが、残されている他の4つの協約文は、国政上の重大問題であるにもかかわらず、「略式」で作成されており、必要なところに「御名御璽」がないという「不備なもの」です。さらに韓国の法的手続きを経ていません。
なぜ不備なものになったのか調べると、韓国皇帝が条約に反対していたからです。日本側が一方的に作成した「捏造文書」と言えるものなのです。現在式に言えば「公文書偽造」で、これは明らかに無効です。韓国の法律にもとづく手続きが行われていなかった証拠でもあります。「協議」されたと言う人もいますが、軍隊を背景に有無を言わせないもので「協議」などといえる内容ではありませんでした。
具体的に見てみます
①、の議定書は、略式です。批准書も王印もありません。
②、も略式で題名がない。日韓協約とあとで呼ぶようになったのです。
委任状がない、王印がない。韓国語がない。英文がある。後で条約と題名を加えた。
③、(保護条約と呼ばれているもの)略式・題名がない。
批准書も王印もない。韓国語がない。しかし英文がある。条約と題名がある。後で加えた。
④、略式で7項目の約束をしたと言うメモのようなもので批准書も王印もありません。
五つ目の一番肝心な「併合」条約は、日本側は正式条約にしようとしましたが
①、委任状は王のサインと印鑑が押されています。
②、の条文と担当者のサインと印があります。
③、ところが両国皇帝の名でつくる批准書に韓国皇帝の「御名御璽」がないのです。
皇帝純宗が、韓国「併合」に反対し、条文作成に応じず日本側が御璽に変わる行政手続き用の印鑑を押し、文書を偽造し条約を締結する現場に持ち込んできたからです。
だから私の結論としては、韓国「併合」条約は、戒厳令の下で、韓国皇帝が反対し、当時の条約形式も満たさず御名御璽がなく、特に韓国の法手続きが欠落しており、非合法文書で「無効」としか言いようのないものです。以上が2つ目の理由です。
さらに、その証拠を裏付けるもう一つの証拠として、皇帝純宗の遺言があります。当時の実態から、韓国内では発表できず、7月になって米国のサンフランシスコで暮らしていた韓国人たちの新聞「新韓民報」に発表されました。資料を見てください
遺言・ 過ぎし日の併合認准は、強隣(日本)が、逆臣の群れ(李 完用など親日派大臣)とともに勝手になし 勝手に宣布したものであり、すべて私がなしたことではないのだ。ひたすら私を幽閉し、私を脅迫し、私をして明白に話をできないようにさせたのであり、私がしたのではないということを明白に知らしめれば意的の所為、併合認准と譲国の詔勅はおのずと破棄に帰してしまうだろう。とあります。
さらに付け加えておきたいことは、歴史学者の本には出てこない最近の韓国大法廷の判決です。読んでみると「有効論」の論拠を論破して「併合」は無効であるとの理論的到達点にたって、「日韓基本条約で個人請求権はないとしている日本側の主張をもしりぞけ、金額を示して個人賠償をすべきであると「判決」を下しています。韓国の最高裁判所の判決ですから、今後大きな影響を持ってきます。
このような新しい国際的な状況も踏まえて 歴史認識の一致をさせなければならないと思うのです。
以上が、韓国「併合」条約は無効だという私の考えです。
宮廷内の庭