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伊藤内務卿はムチの手段に重点を置いたのに対し、 鍋島らはアメの手法で琉球社会を分断!

2015-06-11 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

琉球併合直後、明治政府が分断策 県公文書館に新史料2通

2015年6月11日 7:15 

 


「琉球処分」に関し、内務省の役人が琉球士族の分断策を松田道之処分官に提言した公文書(県公文書館

  1879年に日本が琉球国を併合した「琉球処分」に関する明治政府の公文書2通が、10日までに新たに見つかった。その1通の内容から、「廃藩置県」公布 からわずか5日後の4月9日、現地リーダー格の内務省官員が、琉球旧士族の強力な抵抗に対して三つの分断策を提起していたことが判明した。もう1通は、 「寛容と弾圧」の使い分けで旧士族の抵抗を抑えようとしている鍋島直彬初代県令を伊藤博文内務卿が強く批判し、強硬策を取るよう指示した文書の原本である ことが分かった。
 公文書はいずれも「内務省」と書かれた用紙各2~3枚で、県公文書館所蔵。琉球新報の取材で新史料であることや内容が判明した。専門家は「琉球処分」の実情を知る上で「大変貴重な史料だ」と話している。
 1通は、首里城を占拠した松田道之処分官一行のリーダー格・俣野景孝ら3人が「復命書」(報告書)とともに松田処分官と木梨精一郎沖縄県令心得に出した 79年4月9日付の“意見書”。新県政に対する琉球旧士族の抵抗を和らげるため、命令に従うよう旧王の尚泰から説得させることや、首里王府が地方に派遣し た役人を廃止し、新県政が選んだ士族と交代することなどを提言している。これらの分断策は後に実行された。
 2通目は、伊藤内務卿が79年10月8日付で鍋島県令に送った文書。新県政が8月に旧士族100人余を逮捕・拷問した後、9月に新県政への「恭順」を表 明した旧三司官2人を県顧問に採用したことに、伊藤は「信じてはいけない」と警告、厳重に問い詰めるよう指示している。同じ内容で「沖縄縣」と記された用 紙に写された文書が琉球大附属図書館の「原忠順文庫」に所蔵されている。今回見つかった文書はその原本とみられる。
 西里喜行琉球大名誉教授(歴史学)は「明治政府と県庁は“アメとムチ”で対応する方針を共有していた。伊藤内務卿はムチの手段に重点を置いたのに対し、 鍋島らはアメの手法で琉球社会を分断し、内部から県政協力者を獲得することに配慮した」と指摘。金城正篤同大名誉教授(歴史学)は「『沖縄縣』の用紙に書 かれた伊藤の文書は知っていたが、内務省にオリジナルがあったことは知らなかった。内容はほぼ同じだが、1次史料の発見は貴重だ」と強調した。
 2通の公文書は、米国統治下の沖縄で1964~68年に行政主席を務めた故・松岡政保氏が九州で「薩摩の子孫」を名乗る人から譲り受け、松岡氏の家族が96年に県公文書館へ寄託した。(新垣毅)

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連載41 102歳までいきた母  夫・親・兄弟姉妹について聞いたこと、 「そっちは嫌やだと言った。」

2015-06-11 | 「私がお話し」します。

妹悦子・テレビに出したいぐらい可愛いい子だった。

私が洋服をつくって着せた。

 

 もう一人の弟・頼孝(よりよし)は 軍隊に召集され、ニューギニアで戦死したと骨箱に木片が入って帰ってきた。

よりちゃんは、水彩画が上手で何枚か 残っていたのを見たことがあるが・・・どうなったかわからない?

もう残っていないと思う。あの子は面白い冗談を言ってみんなを笑わせていた。そやのに、戦 争で早く死んでしもた。

出征の時、隣の家の前で写した写真が残っている。という。


 文孝(のりよし)のう ちゃんは、中学校の低学年で死んだ。

なぜか少し吃音があり、あまり勉強が得意でなかったけれど、みんなから可愛がられていた。

病床にあった最期、自分が死ぬのがわかったのかどうか知らないが、死ぬちょっと前のある日、

みんなが心配して集まっていた。 その時、何を思ったのか、のう  ちゃんは、布団の上に正座して、

すらすらと「お父さん、お母さんお先に参ります」といった。

 みんな泣いた。今思い出してもなぜあの子が、あんなことが言えたのかと、思うとよけいに涙が出てくるという。



 悦子、この妹も小学校5年の頃だったと思うが、子供の時に死んだ。えっちゃんは、誰よりも可愛い子だった。

他の兄弟・姉妹おおよそ美男子・美女は、いな かった。しかし、えっちゃんだけは違っていた。

テレビに出したいぐらい可愛いい子だった。私が洋服をつくって着せた。

いつも絢子ちゃん・絢子ちゃんと言っ てついてきたのに、早く死んでしまった。その時は自分まで悲しくなりよく泣いた。

一緒に死にたくなるほどだった。他にも大きくならずに死んだ子もいた。



  一番下の妹・俊子が東京で暮らしているので、満・美津子が09年10月21日88歳に会った。

そうして母・絢子のことを聞いた。絢さんは、子供の頃太っていて2人分ぐらいの大きさやった。

しっかりしていたが、子供の頃は、私とあんまり仲が良くなかった。

 その理由は、えっちゃんがいたからだという。えっちゃんばかり可愛がって、私をほったらかしで遊んでくれなかったから。

私は、母(スエ)のうしろばかりついていて、夜寝るときもいつも一緒だった。

お父さんは、お母さんをたたいたりして、可愛いそう だった。

  仙三さん(絢子の夫)のことを兄さんと言っていた。仙三さんが、自転車で呉服を積んで柳谷を越えて

大沢まで運んでよう働いてくれたので家計はやりくりできた。兄さんと言っていたが、子供が好きで三人「孝之・満・淳子」

みんなを可愛がっていた。半年ほど結核で寝ていた。伝染ったらあかんというので好きな子供と遊べず可愛いそうだった。

病気で亡くなりそうになったある日、福島に行っていたお母さん(スエ)を呼んで欲しいというので、

私は勤めていた向日町役場を 辞めて、福島に迎えに行った。

兄さんは、帰ってきた母に、あとあと3人の子供をちゃんと見て欲しいと頼んでいた。 私にとっては、良い兄貴だった。

 他の兄弟のことも聞いたが、絢さんの記憶とだいたい同じだった。少し違ったのは、「頼孝」について、あの子は戦死したが、

何かにつけて運の悪い子供だったと言っていた。


   母は、自分の夫(仙三)S、18・12・6死亡、夫のことはあまり言わない。でもちょっとだけ言ったことがある。

夢に出てきても若いときの顔ばかりだ。 京極(四条川原町近く)に行った時の夢を見た。

絢さんこっちへおいでというので、そっちは嫌やだと言った。それからもうこっちへおいでとはいわなくなったのだそうだ。

 7~8年間の結婚生活だった。私・満は父の死亡については2歳8ヶ月の時で何も覚えていない。

母は、戦争で苦しい時代を3人の子供を連れて暮らしてきたのだから根性が座っている。

 淀・生津から養子に来た。その経緯は聞けなかった。背の高さが五尺五寸・165㎝当時としては高い方だったという。

呉服屋をしていた頃の働き手だった。

 仙 さんは淀の実家(生津・姓は奥村)、横の木津川で鍛えた?のか、泳ぎとボートが上手だった、

子どもをつれて嵐山にボート遊びに行ったらしい。

若いとき何歳から何歳までか知ら ないが、瀬戸内海定期航路や日満航路のボーイだったという。

後に「海軍」に入ったから役に立ったに違いない。海が性に合うので海軍に入ったのかも知れな い。水兵服で

ヨットに乗った写真が残っている。若いときのことは、淀の親戚に聞かねばならないが、もう知る人が殆どいない。

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