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戦争法案の成立を許さない、戦争か平和か日本の国のあり方、日本の命運を左右する歴史的なたたかい

2015-06-10 | 日本共産党ホームページより

「戦争法案阻止・党勢拡大大運動」を提起

日本共産党が幹部会開く

 

 

写真

(写真)党本部で開かれた幹部会=9日

 日本共産党は9日、党本部で幹部会を開き、6月10日から9月30日までを期限とする「戦争法案阻止・党勢拡大大運動」にとりくむことを訴える決議を全会一致で採択しました。

 冒頭、志位和夫委員長が、戦争法案反対の大闘争、党勢拡大の大飛躍をつくる「大運動」の意義にふれてあいさつ。山下芳生書記局長が決議案の内容を報告しました。これを受け、「大運動」にどうとりくむのかなど真剣で活発な討論が行われました。

 採択された決議は、「戦争法案の成立を許さないたたかいは、戦争か平和か、日本の国のあり方、日本の命運を左右する歴史的なたたかい」と強調する とともに、いまほど情勢を切り開くことができる、強く大きな党をつくることが求められる時はないとして、(1)戦争法案阻止のために党の総力をあげてたた かう、(2)党員拡大を根幹にすえた党勢拡大の新たな高揚をつくりだす―ことをよびかけています。

 戦争法案阻止の課題について、党の国会論戦を通じ、戦争法案の「違憲性」とともに、この法案を推進する勢力の異常な「対米従属性」、「歴史逆行性」が浮き彫りになったことを解明しています。

 そのうえで、「戦争法案反対」の一点での壮大な国民的共同のたたかいを広げることの決定的な重要性について強調し、(1)法案の本質的危険性を国 民全体の認識にする、(2)草の根から共同を広げる、(3)各分野のたたかいを発展させ、安倍政権打倒の世論と運動を大合流させる―の3点に留意してたた かいをすすめることをよびかけています。

 第二の課題の党勢拡大の目標は、(1)全支部が新しい党員を迎え、全地区が「世代的継承」を位置づけ、青年・学生党員と労働者の党員を増やす目標 と計画をもち毎月新入党員を迎える、(2)「しんぶん赤旗」読者拡大は、全党的に一刻も早い前回参院選時の回復・突破をめざし、「大運動」期間中に昨年の 総選挙時を回復・突破する―などです。

 決議は、党勢拡大で新たな高揚をかちとる重大な意義と、とりくみの方針について提起し、全党組織と党員が、革命政党としての気概を発揮し、心一つに、掲げた目標を必ずやりとげようと訴えています。

 会議の最後に、志位委員長が発言し、戦争法案阻止、党勢拡大の課題をそれぞれ追求し、目標を本気で、腹を据えてやりぬくことが、二つの課題を相乗的、統一的に発展させることになると強調、奮闘をよびかけました。

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連載、40 102歳まで生きた母 100歳のころ息子(私)との会話より・・ケア回生で

2015-06-10 | 「私がお話し」します。

近所の方は大橋の家族は「ハイカラな人」と写っていたそうである。

 

 大橋家とキリスト教との関係は、現在「まこと幼稚園」になっている「向日町基督教会の歴史」に詳しくでている。

だから近年の大橋家の人間は、総じてクリスチャンに近い考えを持っている。

近所の方は大橋の家族は「ハイカラな人」と写っていたそうである。(太郎さんの田淵、お母さんが証人である)


 母・絢子がなぜか、あまり詳しく知らないようだが、おはくさん とか たえこさん とか言う名前を言うのだが、

誰なのかよくわからない。静岡とか府中とかの地名を口にするが、それも関係が良くわからない。後日の調査だ。

 母スエは、大阪府島本町大沢の田舎の人だから屋根の上に登って雨漏りまで修理した。

それは私も幼いときに目撃している。孝には出来なかったことだ・・・父母はよく口論していたといっている。

母は、両親は余り仲がよくないと思っていたらしい・・・


 孝(よし) は、よく選挙の応援をしていて、隣の仕出し屋の瀧仁から料理を取り、他人にばかり接待し、

家の中は金が無く、両親の喧嘩が絶えなかったという。昭和4年ごろ向町議会議員をしていた。向日市史に載っている。

同郷の川崎 末五郎氏の応援をしていた。現在、大山崎町にそのご子息が健在で、80歳を超えておられるが・・、

税理士で町の監査委員をしておられた。

私が向日市の監査委員をしていたときよくお会いした。非常に親しくしていただいた。奥さんは、もう家はないが、

光明寺の前の薮内さんだ。

孝が死んで半年ほどでスエはなくなった。本当のところは仲が良かったのだろう。私、満が中学校一年のころだったと思う。

  母の姉の美津江は、古い昔なのに、英語の先生をしていた。

だけど普段「ホース」のことを管(くだ)と言っていたと母は笑う。

長谷川となり、今、その長男が大阪の堺で神経科の医者をしている。府立大学飛び級の秀才だったが、

運動神経は余りよいとは言えなかったと覚えている。もう80歳くらいであろうか?・・・・

その妹の博子さん、敬子さんからは、毎年 年賀状をくれる。

 妹の勇子は、きっちりしすぎて肩ぐるしいくらいだったという、「月給取りの家庭はきっちりしすぎだ」という。

「自分はあんな上手に他人とはつきあえない」といっていた。

 戦後すぐに、5人の小さい子どもをつれて満州から引き揚げてきて烏丸鞍馬口に住んでいたが、

昭和42~3年頃に向日市森本町天神ノ森に移り住んだ。歳を取ってから、母とあまりにもよく似ていたので外を歩いていて

よく近所の人に間違われた。

 その夫は、孝が川島甚平氏(元・川島織物社長)らと向日町基督協会をつくった頃、同志社大学から来ていた

大浜進氏である。慎吾ちゃん、(妻康子ちゃん)陽子ちゃん、計ちゃん、徹ちゃん、まあちゃん、みんな元気にしているかと

心配している。進さんは川島織物の人事部長か何か偉いさんで、組合にも理解があったと、

川島の労働組合役員をしていた方から聞いていた。

 弟の正孝(まさよし)は、ずーと隣どうしで住んでいたので、心の頼りにしていた。

地域でいろいろな役をしていたが、人前ではあまり喋りたがらなかったが、 仕方なく喋らねばならなくなったときは、

結構上手に話せた。 父・孝と呉服屋等をしたあと司法書士をした。何でも器用にこなした。

テニス、ボーリング、野球、小柄だったがスポーツも出来た。

亡くなる三日ほど前に枕元に見舞ったとき「今日は千客万来」やな!と言ったのが最後に聞いた言葉だ。

だじゃれが好きな叔父だった。
  

 

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