2、私が「韓国・朝鮮」に関心を持つようになった理由は
子どもの頃 私の隣の席に朝鮮人がいました。
私は、昭和28年4月から31年3月まで三年間、乙訓中学校(現在は勝山)にかよっていました。二度クラス替えがありましたが、なぜか何時も隣の席に同じ韓国人の子どもがいました。三守(サムス)という名前でした。
随分後になって当時の担任の先生に伺ったのですが、「彼は大橋君の隣にいれば普通にしているが、別のところに座ると横にいる者の邪魔をして授業にならない。君には申し訳なかったが、職員会議で相談して決めたのだ」と説明されました。このことが私の一生を左右する出来事になるとは、思いもしませんでした。
サムスは、三年になったときには随分体格がよくなり、16キロ走る校内マラソンで一位を取りました。クラス別バスケットボールの試合では、作戦を立て彼をずっとゴールの下にいさせて、皆が彼にボールを集めるとどんどんゴールしましました。作戦が当たってどのクラスにも大差で勝利しました。
彼は、頭がよかったけれどあまり勉強はしませんでした。でも時々95点や100点を取りました。彼は横にいる私の答えをそのまま写して出すのです。そうして悪びれもせず笑っているのです。私も顔を見合わせて笑ったものです。
彼は休憩時間には、たえず5~6人の友人を連れて校内や運動場でいじめをし、学校中で恐がられていました。ある日、同じクラスの生徒に暴力をしました。
私は彼とその生徒の間に入り、やめさせようとしましたが、私にも今にも殴りそうな勢いです。私は、弱い子をいじめるな!殴りたければ俺を殴れ!と怒りました。彼は気がついたのか何もしませんでした。
当時は中学校を卒業すると同時に就職する子どもが多く、高校には3~4割?しか行きませんでした。私は、三年生になった頃から、母子家庭の次男で兄と妹がいましたから、近くで一番給料のよい会社に入って夜学に行くことを自分で決めていました。私は希望する会社と学校に入りました。ところが、サムスは会社に就職できなかったと後で聞きました。
その理由は、彼が朝鮮人だということだけでした。私はその時初めて、世の中に朝鮮人差別があることを知り、同じ人間なのにおかしいじゃないかと腹が立ったのを、昨日のことのように覚えています。随分日がたって向日町の道路でダンプカーの運転席に乗って通り過ぎる彼を見たことがありましたが殆ど会うこともありませんでした。
20歳になった頃ひょっこり私の家にきました。「お!どうしてた?」という会話から苦労してきた話を聞いた後、「子どもができて、00病院に入っているが退院させる金がないので貸してくれ」というのです。
勿論私の家には余分のお金はありません。「いくら必要か」と聞けば「?万円」という。「おれな、背広を買おうと思ってためている金があるのでそれを使えばええわ」といって渡しました。
後から思えばなぜ私のところへ来たのか、近所にもたくさん知り合いがあるはずなのに・・・今になっても答えは聞いていないのです。何日かしてまた彼が来ました。彼は私を自分の家に連れて行きました。
そこは、桂川の堤防ぞいにある「0番地」というところでした。わらぶきの二間しかない物置のような家でした。「まあ座ってくれ!」といわれるがままにその土間に座わり周囲を見ましたが何もありませんでした。
彼は、男の子が生まれたこと、別にアパートを借りていること。日本名を私の名前をとって「みつる」とつけたことを話しました。そうしてどんな仕事をしているか説明したのですが、どう考えても暴力団の手伝いみたいなことでした。
私は、夜学を卒業後労働組合活動と日本人と朝鮮人は仲良くしようという「日朝協会」の運動をしていることを話しました。彼は京都の朝鮮総連の役員で親戚の人がいると言っていました。どちらからもお金についてはなにもふれませんでした。
そのあと何年も会うことはなかったのですが、私が留守のときに、貸したお金を返しにきたと母から聞きました。
その後彼は再婚し何人かの子どもができたのですが、その中に障がい児学級に入らなければならない女の子がいました。奥さんは普通学級にいかせると言い張ったが、彼は、本人のことを考えれば障がい児学級に入れるといって通わせました。せっかく先生にもなれて休まず学校に行っていたのに、その先生が転校になりもう学校へ行かないと言い出しました。彼は大層困って私のところに「相談がある」と電話してきました。
今なら自由に学校を変わることが出来ますが、当時は住んでいる学区以外のところにはいけませんでした。私は彼に「ええ親父やな! 無理すれば頼めないことはないが、大きな問題にせず転校しようと思えば、その学校区の中にアパートを借りて住所を移せば、トラブルなしで転校できるが、どうするか」と教えました。その後どうしたのか何も言ってきませんでしたが、先生について転校したということを聞き安心しました。
40歳をすぎた頃に京都市内で中学校の1・2年有志同窓会をしたことがありました。まさか出席しないだろうと思っていたサムスが韓流スターのような息子を連れて参加してきました。当時彼は、そちらの世界では、「長」がつく地位だったと思うのでみんなびっくりしました。プログラムが進んで、ひとりづつ立って近況報告が始まりました。
サムスに順番が周り、みんな何を言い出すのか、かたずを呑んでシーンとなりまた。
そこには昔の悪さ坊主の彼はなく、にこにこして話を始めました。今日は子どもをつれてきました。そのままの俺をみてもらおうと思って・・・
ポツリポツリと話しだした彼は、若くて結婚した経緯やダンプに乗っていたことや、嫁とそりが合わなかったようなことまで話し、子どもができて病院を退院する金がなく大橋君に借りて助かった。その時の子がこの息子で日本名を「みつる」とつけましたというのです。私もびっくりしましたが、20数人いた参加者全員が、子どものころは悪さばっかりしていた彼が、こんなにもすなおな人だったのだと感激したのでした。
彼は食事もそこそこに、次に行くところがあるのでお先に失礼します、と息子にも挨拶させて帰って行きました。後日になって、その時の思い出話は、みんなサムスのことでした。
何年かして、身体がボロボロになり、帰らぬ人となったということを聞きました。50歳を少しこえたくらいでした。きっと波乱万丈の人生だったと想像していますが、詳しいことを教えてくれる人は誰もいません。
ただ私との接点は、人間らしいよい面だけが心に残っているのです。
私が子どものときに、もし彼に会っていなければ、労働運動と差別問題、社会保障と差別問題、自治体闘争と差別問題、なによりも日朝友好運動と差別問題、などなど社会変革のために身をささげる人生を選んだのも、この出会いが社会への出発点として大きいウエイトを占めることになったのです。
以来50年以上に渡って日・朝・韓の友好のために活動して来ました。きっと皆さんも、それぞれよく似た話があるのではないでしょうか。私は、このような差別は、絶対なくさなければならないと 今でも強く思っています。
日本と朝鮮・韓国は、毎日の生活でも身近な存在ですし、歴史的にも非常に深いつながりがありました。