大往生でした。102年間もご苦労さまでしたと、
母を褒めてやりたいと思います。
私はおまいりしていただいた皆さんの前で最後の挨拶をしている最中に、どんな感情になるのか予想することが出来ず「ご挨拶」を書いて御供養に入れておいた。当日は普通に挨拶することができたが それは次の様なものだった。
葬儀・告別式での 親族を代表して 私のあいさつ
御礼のご挨拶を申し上げます。昨日のお通夜のときにも申し上げましたが
本当に大往生でした。102年間もご苦労さまでしたと、母を褒めてやりたいと思います。
大橋絢子は、1909年1月12日、父・孝、母・スエの次女として、向日町で生まれました。
父の孝は、福島県福島市飯坂町、スエは、大阪府島本町大沢の出身です。
絢子という名前は、棚橋絢子さん、当時70歳の「絢子」からその名前をもらったのだと100歳になってはじめて教えてくれました。インターネットで調べると棚橋絢子さんは、1839年生まれ、失明の漢学者棚橋大作氏と結婚し、貴族の娘の家庭教師や学習院などで教師として活躍した方です。名古屋市で高等女学校初代の「おなご校長」として評判になり65歳から100歳まで校長職にあった方で、今なら100歳万歳のテレビに出られていたことでしょう。101歳で亡くなられました。棚橋さんはどんな時代でも女性も男性も同じように教育を受けることが大切であると教え続けたという方です。本当によい方の名前を貰ったので、棚橋さんと同じように100歳を越えることが出来たのです。 孝の弟・母の叔父さん「大橋五郎さん」が、当時、学習院の教授をしていたので棚橋さんを尊敬していて、その名前をつけたのだと思います。
絢さんは、口癖のように、姉に続きすぐ自分が生まれたので、母の母乳が余り出なかったので、牛乳で育てられたから骨太で100歳まで生きたのだと言っていました。
小学校は、向陽尋常小学校、向日コミセンの西側に二階建ての校舎がありました。当時の写真を見ると、非常に体格のよい子でした。父が当時としてはハイカラな人で、女の子にかわいい革靴を、雨降りには長靴を履かせたので、学校で冷やかされて恥ずかしかったそうです。次々弟・妹が生まれたので、母親代わりに手伝いをしなければならなかったそうです。服を作ってやったり勉強も遊び相手も、子守もしました。悦っちゃんという妹を一番可愛がっていたそうです。しかしその子は10歳で病気で死んでしまいました。
父・孝は、クリスチャンで裏の敷地に教会を建て、日曜日には近所の子どもがたくさん来ていました。後になって現在のまこと幼稚園・向日町キリスト教会に移転しました。「向日町基督教会の歴史」にその経緯が詳しく書かれています。また孝は、昭和4年阪急電車(新京阪電鉄)が敷設された頃、学務委員や町会議員をしていました。向日市史に名前が出ています。だから、母は、私が議員に立候補するときも、理解していたようで何も言いませんでした。
絢子の夫・我々の父ですが、伏見区淀・生津の出身で、奥村仙三といい、3人の子をもうけました。仙三は養子として大橋に入りましたが、海の男で、若い頃は、日満航路や瀬戸内海別府航路のボーイをしていました。軍隊は海軍でヨットに乗っている写真が残っています。戦争から帰ってきたのですが、自宅で1943年12月6日、年若くして他界しました。
母は戦争中の大変な時期に女手一つで、3人の子育てをしました。父母と弟が隣の家に住んでいましたので心強かったと思うのですが、食べるものがなくなれば、淀の親父の実家が、農家だったのでリヤカーを牽いて買い出しに行きました。だから淀には足を向けて寝られないとよく言っていました。帰りに警察の検問に引っ掛かり、せっかく買ってきたものを取り上げられたこともあり、ひどい世の中だったと言っていました。
母の一生を支えてきたのは、若いときに一流の音楽、バレーや踊り、演劇、西洋の映画、等をたくさん見てきたからだと言っていました。「子どもが20歳を過ぎたら一人前だから」と何をしていても干渉しませんでしたし、他人の悪口は言いませんでした。私が22~3歳の頃勤めていた三菱製紙の総務課長から「お母さん会社に来てください」と赤攻撃の電話がありました。母は、息子は20歳を過ぎておりますので、自分の行動には責任を持たせています。「私が行く必要はありません」と拒否しました。
中略
生まれてはじめての入院、三ヶ月して退院するとき、
「もう帰るのんか?」ですって。
94~5歳くらいだったと思うのですが、敬老の日に孫やひ孫と一緒に食事に行きました。帰るときに誰よりも一番に店を出ようとして下駄箱の前で、10センチほどの段を踏みはずして大腿骨を骨折してしまいました。生まれてはじめての入院でした。それまで病気をしたことがなかったのです。医者は、なおるまでに三ヶ月はかかると言いました。しかし、長い間入院するのは嫌だというので、二ヶ月だと告げました。ところが入院した部屋には、母スエの生まれた大沢の人、寺戸の知った方のお子さんがおられて不安がいっぺんに解消、楽しく治療が出来、三ヶ月して退院するとき、もう帰るのんか?ですって。こんな一面がある母でした。
白寿のお祝いを、子・孫・ひ孫が集まってエミナースで行ったとき、ひ孫の朔弥くんが「長寿の秘訣はなんですか?」と聞きました。絢さんは一寸かんがえて「くよくよしないことやな!」と言いました。短い言葉で一生の教訓をズバリといえるのは、人間の達人だと感心しました。
歩けなくなって、ケア回生に来たおかげで、子ども、孫、ひ孫、職員の方、同僚の方、長い間会わなかった、兄弟姉妹の子どもたち、そして、府庁や市役所、社会福祉協議会の方など、こんなに多くの方々に祝福されて100歳を迎えられて、こんなに嬉しいことはない。きっと、自宅にいれば、こんな沢山に祝ってもらえなかったと思う。と言って「ケア回生に来てカナン」とは言いませんでした。そうして「まあ、長生きしてもあんまり良いことはないけど、ちょっとはよいこともある」と言っていました。
長く続く大橋家の家系図を見ると、医者・薬屋・学者・網元・県会議員・学習院の教授まで大層な肩書きの人もいるが、100歳はいない。と説明すると「そうか!他の人より一寸長く生きてるだけやけど・・」と澄ましていました。100歳になれば総理大臣から「慶賀にたえません」と賞状が届きます。私が「表彰状」と言って全文読み、総理大臣「福田康夫」と言いますと、「今総理大臣は麻生太郎やで!」と突込みが入るのです。次々総理が替わったときでもちゃんと覚えているのです。
ある時、「もうなんにも望むことはない、今日できたことが明日出来たらそれでよい」というのです。この言葉はどこかで聞いたことがあるでしょう。そうです。野球選手のイチロウ君です。10年間200本以上のヒットを打ち続ける。そのとき思いました。絢子さんは考えることが世界水準だと。最後の言葉は「美津子さんありがとう」でした。
しかし、とうとう昨日出来たことが今日は出来なくなってしまいました。母がなくなれば悲しいことですが、102年間も頑張ってきたのですから、その生涯にアッパレマークを貼って上げたいと思います。どうぞ安らかにお眠りください。
本日は、公私ともお忙しい中を最後までお見送りいただきまして大変ありがとうございました。きっと母は皆さんに感謝し喜んでいることと思います。そうしてこれからも、千の風になって我々家族と、皆様を見守ってくれると思います。 合掌
ご一緒に、「千の風になって」を合唱してください・(音楽流れる)
母に対する別れの挨拶と、ご参列いただきました皆様への御礼といたします。
本当にありがとうございました。