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女子高生がマイクを握り、「平和憲法や大切な人、自分たちの未来を守るために声をあげます」

2015-06-16 | 若者が自分の問題として考えだした。

「戦争するな」 3500人コール  若者憲法集会 渋谷デモ

 

 

写真

(写真)コールやスピーチで戦争法反対を訴える若者たち=14日、東京都渋谷区

 14日、東京・渋谷の街でおこなわれた「戦争立法反対!渋谷デモ」。デモ隊列は、沿道からの飛び入り参加などで、出発時から大きく伸びて3500人(主催者発表)に膨れあがりました。

 サウンドカーから流れるラップのリズムにのって、「戦争法案ぜったい反対」「戦争するな」「憲法守れ」とコールしました。

 女子高生がマイクを握り、「平和憲法や大切な人、自分たちの未来を守るために声をあげます」とスピーチ。札幌市から参加した19歳の女性も「自衛隊が戦争に加担するのを見たくない。そのせいで死んでいく命も考えたくない。イヤなことはイヤだと叫びます」と訴えました。

 沿道からも共感の声が寄せられました。ビラを受け取った女性(21)は「戦争法案はなんかマズイな、と感じていました。若い人の意思表示って大事だし、かっこいい。機会があれば参加したい」と話しました。

 「無関心ではいられない」と、父親とデモに参加したのは高校生の男子(16)。「違憲の法案を通そうとするのはおかしい。これだけの人が怒っているぞと、安倍首相に見せつけたい」

 デモに先立って若者憲法集会が開かれました。

 デモ出発前にあいさつした若者憲法集会実行委員会の黒津和泉さんは、「憲法を守らない政治家はいりません。必ず戦争法案をとめましょう」と訴えました。

 SEALDs(シールズ=自由と民主主義のための学生緊急行動)の牛田悦正さんは、「僕らは、憲法と民主主義を守れという基本的なことしかいってない。安倍政権をたたきつぶしましょう」と呼びかけました。

 日本共産党の池内さおり衆院議員、吉良よし子参院議員が参加し、あいさつしました。

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連載を終えるにあたり、学習院大学教授正六位 大橋五郎 (母の叔父さん父の弟)作成の系図

2015-06-16 | 「私がお話し」します。

連載 46 大橋五郎さんが書いた家系図が残っています。

   

大橋家の家系について  大正5年9月 七郎右衛門三男 学習院大学教授正六位  が書き残してくれたものを

口語文になおして2008年1月6日  大橋絢子 白寿の祝いで 報告したものです。(古文のわかるかたに確認済みです)    

 

  大正5年9月 大橋七郎右衛門の三男 学習院教授正六位 大橋五郎(絢子の叔父)が 

現、福島県福島市飯坂町西滝野町4   曹洞宗 厳湯山常泉寺 現在の連絡先024-542-3821 に行き、

お坊さんと話をし、過去帳を調べ、お墓の墓標に書いてある文字や歴史を調べ、 関連するお寺や、地元の人に会って、

聞くなどして作成されたのが、この家系図です。(お墓は、常泉寺にあります。)

 

1、祖先は、応永(166代天皇・1394~1424年)足利4代将軍 義持時代以前 より 

福島県伊達郡小国村大字上小国(旧字名は駒場という)に住み 

中祖を掃部(かもん)と呼び、 通称を駒場掃部(こまばかもん)と言いました。

  同地の「字名」である「駒場」を名前の上につけて呼ぶようになりました 。

考えてみると、霊山の麓(ふもと)であるこの地方は、当時から 多くの軍馬を産出していた土地柄だったので、

この字名がありました。

そして 掃部の妻・室妙幻禅定尼(戒名)は、慶安(1648~1651年)元年(子の年)正月晦日(30日)になくなりました。

 

2、伊達郡 小国村 大字上小国にあった大橋家は応永17年(1410年)室町時代、

同地に開祖された「小国寺」の開祖以来の檀家でした。

 

3、福島県信夫郡中野村大字中野にある大橋家は、前記伊達郡小国村大字上小国なる大橋 家より出ています。

其の祖、源助氏は、調剤の業・薬製造業を、同県信夫郡飯坂町 旧地名 上飯坂村に開き 

その孫二代目七郎右衛門の代に到って中野村に移りました。(幼い頃この家にいったこと)

 

4、家系(中祖)大橋掃部・佐吉 (文政8酉年三月14日亡)江戸中後期

             本然妙性信女    (文政2巳年4月17日亡)

                この方は伊達郡富成村大字高成田 三浦良順の娘でした 

良順と言う方は、東京帝国大学 医科大学教授

       兼 宮内省御用掛医学博士 三浦謹之助氏の先祖でした。

 

   佐吉夫婦には周助 ・良庵・ 源助と 3人の子がいました。

  良庵 (東医大橋南台居士) 文政元子年3月9日亡

  源助   源助  の子に済

    妻・ヤツ は、信夫郡旧上飯坂村、検断役・佐藤半七の娘でした。        

そうして 、その兄 伊六と言う人は、北海道に渡航して 漁場を経営し、初代・栄右衛門といいました。        網元

    現(大正五年当時)戸主・栄右衛門氏は衆議院議員で道会議員を兼ね 

  又、飯坂町佐半の 現戸主佐藤秀蔵氏は県会議員でした。

 

  源助の子 済は、モンと結婚し、七郎右衛門をもうけました。 

           モンは、信夫郡 旧下飯坂村名手 赤井夏門(なつかど)の妹です。

              夏門氏は、本居宣長の門人にして国学の造詣深く、没後大教正(だいきょうせい)を贈られました。

1872年 明治5、 教導職の最高位  (84年廃止)

 

   七郎右衛門は、モトと結婚し、三・孝(よし)・五郎 などをもうけました。

           モトは、信夫郡 旧庭坂村 佐藤庄左衛門の娘でした。

佐藤家の 現 戸主を庄一と呼び 家柄は旧米沢藩の郷士(武士でした。)

 

5、祖先より伝わりたる重宝

1、銘刀(備前福岡住一文字助宗作)

   (小国村大橋家には、古仏像、古書などもあります。)

                                          

6 口碑の伝ふる(昔から、碑に書いたようにしっかりした言い伝え)によれば、

祖先は 村上源氏 北畠顕家(あきいえ)であり、当時足利氏の勢力が強かったので山岳重畳の 

地方である山深い奥州・福島霊山の麓、伊達郡小国村字駒場なるところで、ひそかに住んでいました。

この地にある、小国寺が造られたとき(応永17年)当地にはわずかに7軒の人家しかありませんでした。

そうして、同寺が開かれた時に、大橋家は建築物その他、種々の物品を小国寺に寄進したと書き残されています。

 

7、私が考えるには、

北畠親房卿、東国経略時代において、常陸国(ひたちのくに・栃木 県)久慈郡坂本村大字大和田(旧地名 大橋)付近において、

親房卿が長男・顕家の子供に、姓を大橋と命じ、前記一文字 助宗の銘刀を授け、

家臣に託して 吉野に 還(かえ)られたが、この幼少の人こそ、わが大橋家の祖先に間違いありません。

(親房の母は藤原隆重の娘)以上のことから、北畠親房卿が祖先と言うことです。

当時の常陸地方は、足利方の勢力圏内だったので、残されていた人々は、顕家卿のゆかりの地である霊山の麓

小国村字駒場に住んでいましたが、徳川の時代に到って初めて「掃部」と名乗り出られるようになりました。

以来 伝えられているような経過をたどって今日に至っています。 

私は、以上諸項の事実、及び口碑により伝えられてきたすべてのことについて確信し、

ここに家系として書き残しておきます。 

 

     大正5年9月       七郎右衛門三男

              学習院大学教授正六位 大橋五郎   印



顕家卿は、公式には独身ということになっていますが、3人の姫がいたとされています。

近くでは大阪の阿部野神社に行けば、よくわかります。

福島県旧霊山町に行けば、多くの史跡があります。小国寺もあります。

 

 

 

 

 

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